2-10② 知らない世界
駆け出した足は、秘密の隠れ家へと向かっていた。以前鳥居の方から入る道を知ったはずなのに、僕はまたしても彼女と不法侵入をかましたあの路地裏へと向かっていた。破れた金網を目の前にして、慌てて周囲を見渡した。誰もいない。僕は重たい鞄を金網の中へと押し込めると、迷わず地べたに這いつくばりその穴の中へと体を押し込んだ。砂ぼこりが舞い上がり、僕の視界を遮った。制服を真っ白に汚しながら立ち上がると、汚れを掃うこともせずにその場を駆け出した。あまりにも焦っていたためか、目に砂が入り込んだらしい。右目は軽い痛みを伴いながら、涙で瞳を洗い流し始めた。頬を伝う雫を手の甲で軽くぬぐいながら、なんとか足を前へと進める。不慣れな場所に戸惑いながら、なんとか茂みから体を押し出した時だった。
涙で歪んだ視界の先に、黄色い光が瞬いた。今まで通り、美しいレモンイエローを見た僕は、涙をぬぐう手を空中で止めていた。だんだんと視界が鮮明になってくると、その光は人の形を模っていく。いつか見た体育館での姿そのままに、今度は石畳の上に数冊の教科書を山積みにした状態で、そこに座っていた。ボロボロになったノートは、一体何度書き直したのだろうか。学年を記入する欄は一年六組から時を止めている。
「あ、来たな。裏切者」
その言葉に、僕は思わずドキリとした。まさかこの場所に来ることを忘れ、ひと時の青春に身をゆだねていたことがバレてしまったのだろうか。僕が返事をせずに黙っていると、彼女はケラケラと面白そうな声をあげて笑って見せた。
「もう。この前の公式、何度やってもうまくいかないからさ。可笑しいなと思って本屋で立ち読みしたら、なによ、間違ってるじゃない!」
「え? そんなはずは……」
イチャモンもいいところだ。僕は彼女に教えた公式を使って、テストでは問題なく解けたのだから。僕がその苦情を受け入れないと悟ったのか、彼女は以前僕が渡したノートの切れ端を提示してきた。急いで駆けつけその紙を受け取る。見た瞬間に違和感を覚えた。
なんと、アルファとベータの位置が逆さまになっていたのだった! 存在しない不明瞭な公式を彼女に渡したことに、僕は緊張と申し訳なさで頭の中が真っ白になった。
「あ、これは、その! 嘘じゃないんだ、書くのを、間違えただけで……ごめん、本当に」
つぎはぎの日本語を話していると、彼女はまた声をあげて笑ってみせた。
「ウソ、ウソ! 怒ってなんかないのよ。裏切者とか言ってごめんね。そんな泣くほど謝んないでよね」
「いや、これは違うくて……」
僕は頬に伝う涙を袖口で勢いよくぬぐった。真っ白な裾が土色に変わったことを片目に確認していると、彼女は僕の太もも付近を思い切り叩いて来た。
「うわあっ!」
驚いてその場にしりもちをついた僕に、彼女は目を真ん丸にして驚いている。
「大丈夫?」
「いや、その……な、なに……」
「汚れてるから、はたいてあげようかと思って」
どうやら砂だらけの制服を綺麗にしてくれようと思ったらしい。僕は両手を横に振りながら首も横に振って、彼女の申し出を全力拒絶した。
「だ、大丈夫……。自分で出来るよ」
「あ、そう?」
軽い返事をして、彼女はすんなりと引き下がった。安堵した反面、なぜかその返事に物足りなさを覚える。変な気を起こすんじゃないと自分に言い聞かせながら、僕は体中の汚れを必死に手で掃い落した。
「今日は、いつまで?」
あらかた制服が元の姿を取り戻した頃、彼女は教科書を眺めながら一言僕へと問いかける。今日は丁度塾がない。存分に彼女のために時間を使うつもりだった。しかし数十分という貴重な時間をトイレで消費してしまった僕には、あっという間にタイムリミットが近づいてきているのである。
「えっと……あ、あと、一時間……」
本当はそんな余裕はなかった。母が帰るまでに家に戻っておかなければ心配されるだろう。何をしていたのかと聞かれて、うまくごまかせられるのかが不安だった。
「分かった。じゃあ、三分だけちょうだい」
彼女の提案に、僕は思わず首をひねった。一時間と言ったのが伝わらなかったのだろうか。すると彼女は積み上げられた教科書の上に持っていたノートを乗せると、綺麗な体育座りをして僕の顔を見上げた。
「アタシの机。なくなってた?」
「え……」
何と答えよう。そのまま素直に伝えてもいいのか悩んだ。だが嘘をつくわけにもいかないので、分かるか分からないか程のかすかな頷きで彼女に返答をした。すると僕を見上げていた視線はさらに上に、空高い雲間へと向けられる。
「良かったね」
予想外の言葉に、思わず息が詰まった。彼女の顔を真っ直ぐ見ているが視界はぼやけて、あまりその時のことは覚えていない。また砂が入ったわけではなかったが、なぜか目の前が霞んで見えたのだ。けれど彼女はそんな僕を案じるように、笑い話をするような顔をして話の続きを始めた。
「体育館に行けなかった日のこと、覚えてる? 実はあの時、先生に見つかってさ。進路の紙についてあれこれ聞かれてたんだ」
僕はあの日託された額縁が彩られた紙のことを思い出す。その内容と机が無くなることがリンクしているとしたならば。僕はなんてとんでもないお使いを成し遂げてしまったのだろうかと、勝手に心を痛めていた。僕の表情筋は素直に僕の心の内を表現していたようで、それを見た彼女は軽く首を振って見せる。
「言っておくけど、君のせいじゃないからね。……ここだけの話。学費、ずっと滞納してたんだ。御覧の通り、勉強が嫌いなわけじゃないんだよね。学校に行かなくなったのは、そういうこと。こんなアタシが、アンタたちと同じ教室入って出来る限りの勉学受けるだなんて、失礼極まりないと思わない?」
「……なんで、滞納してるの?」
やっと僕の口から出たその一言は、実に配慮に欠けていたと思う。けれど僕には、彼女が苦しんでいる理由が明確に分からなかった。それは、僕の知らない世界だったからだ。
「君は知らなくていいんだよ」
彼女はそう言って、わざと帰るのを促すように鞄を持ち上げてみせた。
「家計、苦しいとか?」
僕は逃げる彼女を捕まえるように、言葉を付け足す。すると彼女はその場に立ち止まり、ちらりと僕を振り返った。
「それなりに」
たった一言だったけれど、なんだか空気が一変した気がした。ピリッと静電気を浴びたような音が、耳の奥ではじけたような感覚だった。これ以上踏み込んではいけない。彼女がそう言っているようだ。
けれど僕は、手の施しようのない衝動に駆られていた。こうやって人は踏み込んではいけない扉を開けてしまうのだろうと思ってしまう程に。次から次へとなだれ込んでくる疑問を、僕は躊躇なく彼女へと押し付ける。それに彼女は戸惑いながらも、的確な返答をくれた。
「ご家族の方が働けないとか?」
「働いてるよ。両親二人とも。今は別居してて、母さんだけだけど」
「お母さんは何してる人?」
「結構有名なキャバ嬢なんだ。かなり稼いでると思う」
「じゃあ、なんで?」
「アタシのために使う金はないんだってさ」
そこで僕が言い淀んでいると、彼女はクスリと笑った。
「色々さ、お金稼いでやるだけやってみたんだけど、やっぱ無理っぽい。つまるところ、君たちと住む世界が違ったってことさ」
彼女の必死なやりくり、僕にはなんとなく分かったような気がした。いつも制服を着ている理由も、古びた持ち物も、派手過ぎる格好も。すべては僕の創造の範囲内ではあるが、おそらく自らを犠牲にすることでしかお金を稼ぐ方法がなかったのだと思う。だがそれ以上の詳細なことは何一つ考えられなかった。それは目の前にいる彼女が別の顔を持っているだとか、そういうことを考えたくなかったこともあるのだが。正しくは先ほども言った通り、僕の全く知らない世界であったからだ。彼女の言った『住む世界が違う』という言葉がしっくりと来た。
「あーあ。せっかく素敵な恋人が出来たのに、残念だな」
「恋人……?」
あえて大きめの声で付け足した最後の言葉に、僕はあっさりと意識を持って行かれた。今なんて言ったんだ? 恋人? 恋人だって!
「違うよ! 僕は、そのっ! ただの、クラスメイトで……!」
しどろもどろになりながら懸命に否定語を繰り返していると、彼女はわざとらしく笑ってみせた。
「冗談だよ」
その声はおとなしい木村さんにも負ける、本当に小さな声であった。
なんだ、冗談か。そう言われるとなぜか無性に寂しくなる。さっきまでは違うとか、そうじゃないとかいろいろ言いまくっていたくせに、突き放されると急に物乞いしくなるもんだ。
その工程に見事引っかかった僕は、先ほど彼女と話した内容なんてすっかり忘れていた。彼女は鞄を背負い直すと、一人出口の方へと向かって歩く。
「じゃあね、ライム君。……手紙、もういいよ」
彼女は最後にそう言って、赤い鳥居の前から姿を消した。付き合っているわけでもない。本当の恋人でもない。彼女のことは、ほとんど知らないに等しい。なのに、どうしてだろう。何十年も寄り添っていた恋人から、突然別れを告げられた様な喪失感がそこにはあった。すべてを洗い流してくれる爽やかさはもう、そこにはない。ギトギトした油でうまく歯車が回らなくなってしまう。
ついには動かなくなってしまった心を抱えたまま、たった一人で赤い鳥居をくぐって出た。細い路地裏を抜けると、いつも歩いている通学路が目に入る。遠くからつややかな黒髪が歩いてくるのが見えて、僕は慌てて背を向けて走り出していた。僕は乗るべきバス停を通り過ぎ、ただただ目的地もなく走り続ける。
視界の片隅にうつり込む『檸檬のお化け』。しかし、もう彼女の姿はどこにもない。




