2-9 囚われの幽霊と僕
翌日学校に行く前、僕はいつもより早く家を出た。向かう先は彼女の家だ。いつ来ても部屋の電気はついていないし、物音一つしない。常に誰もいないドアの向こう側に、僕は緊張することもしなくなっていた。
毎度の如く入り口をふさいでいる請求書の束の隙間に、僕は押し込むようにして自分の手紙を入れた。他の封筒と比べて比較的薄っぺらいそれは、なんと分厚い封筒の隙間に入り込むように姿を隠してしまった。なんということだ。この様子では僕の手紙が発見されるまで、かれこれ数週間はかかりそうな気がする。それでありながら僕が書いた日付は、今日のものである。彼女でなくても予定があれば不可能に近い日付を、なぜ僕は選んでしまったのか。
彼女との約束を早く果たさなければという焦りもあった。だが本当のところ、日直の日付からあまりにもかけ離れているものでない方がいいと思ったのだ。手紙を出さなかったことを問い詰められると、僕は一度君を捨てたことを正直に話すほかないと思ったから。
自分を擁護する以外のなにものでもない姑息な理由に、自分でさえ嫌気がさすほどだ。手紙を送ったという事実を作り出したことに勝手に満足していた僕は、迷惑極まりない手紙を堂々と彼女へ送り付けたのである。
けれど、僕は彼女に会える。そんな気がした。
ポストに入っている大量の紙きれを静かに見下ろしていると、突然目の前の空間が動き出した。あまりにも不自然な動き方だったので、僕は暑さのあまり立ち眩みでもしたのかと思って頭を軽く振っていた。だがやはりそれは、僕の作り出した幻覚などではなかった。
ドアノブを引っ張るような強い力で、大量の封筒が家の中へと引き込まれて行くのだ。まるで大口開けたクジラが、大量の魚を強引に吸い込んでいるようだった。だがポストの口をふさぐそれはそれぞれを押しあうような形で行く道を譲らず、なかなか中には入れずにいた。手紙を飲み込む力はいうことを聞かない手紙たちにイライラし始めたのか、次第にガタガタと扉を揺らし始める。
ドンドン!
古びた扉が軋むとともに、激しく扉が叩かれた。
「ひいっ!」
どうせいつものように何も起こるはずはないと高を括っていた僕は、轟音を打ち鳴らす扉に思わず情けない悲鳴を上げていた。自分でも飛び出した声に驚きながら、慌てて両手で口を抑え込む。じっとその場で耐え忍んでいると、扉を鳴らしていた音はぴたりと音を止めたのだ。
――バレてしまった。まだ僕が、ここに立っているということを。
向こうもこちらを伺うように、聞き耳を立てているに違いない。僕がどうすればいいか分からずにそのままじっと立ち尽くしていると、ゆっくりと錠が回される音がした。何度も鍵を開けてきた僕だから言う。扉をしっかりと閉ざしていた鍵が開いてしまった。そして僕は、この中の住人と対面するのである。あの体育館で会った時と、同じように。
慌てて周囲を見渡した。だが隠れられるものなどすぐには見当たらず、気が付いた頃には血相を変えてその場から駆け出していたのである。扉に鍵がかかっているという安心感はこんなにも強烈だったのかと、今になって実感した。容赦なく錠が開く音に、どれほど彼女は怖い思いをしただろうか。そりゃあ重たいカーテンの裏にでも隠れたくなるものだ。
今までもあの場所から、慌てて逃げ帰ったことは幾度もあった。その中でも一番慌ただしかったように思う。残り三段ほどある階段を思い切って飛び降りて、僕は学校へと向かう道を駆け出していた。いつもならこの曲がり角で立ち止まり振り返るところを、ただただ走り抜けた。背後から感じる視線を感じながら、僕は前だけを見続けていたのだ。
行きつけのコンビニまで走ってきて、ようやくそこで足を止めた。学校でも長距離走は大の苦手だ。というより、身体を動かす全般が苦手だ。久しぶりに全速力で走ったことによって、僕の肺が悲鳴を上げている。とぼとぼと歩きながら、小刻みな呼吸を繰り返して酸素を大量に各細胞へと送り込んだ。やっと頭が冴えて冷静になった頃には、目の前には校門が見えた。
そこでようやく、僕は後ろを振り返る。同じ制服を着た生徒たちが向かってくるこの場所に、いるはずのない超おんぼろアパートの住人を想像で浮かび上がらせるために。僕らを照らす太陽にその姿を重ねながら、僕は小さくおはようと言った。




