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檸檬の叫びが聞こえるか  作者: 高冨さご
ふたかじりめ

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2-8 初めての感情よこんにちは

 彼女の噂は知っていた。だてに通りすがりの生徒Aを演じてきたわけではない。けれどその目で確認するまで、その噂の彼女と『檸檬のおばけ』がどうしても結びつかなかったのだ。あんなにも派手な髪色をしている生徒は、おそらく僕の学校には彼女だけだ。どうあがいてもイコールで結びつくはずの方程式を、僕は『≒』という形に留めておきたかったのだ。


 僕は返って来た答案用紙をぼんやりと眺めながら、チェックが入っている箇所の問題を赤ペンでぐるぐると囲っていた。君とやった問題は解けたのに、出来ていたはずのところが出来なくなっていた。一つ文句でも言ってやりたい気分だ。


 黒板に板書されて行く解説を片耳に捉えながら、僕は赤ペンをくるくると回していた。視界の端に捉えた文字に、僕は思わずその手からペンを弾き飛ばす。


「あ」


 小さな声と共に地面に転がり落ちる赤ペン。隣の席の黒瀬が不思議そうな顔をしてペンを拾って渡してくれた。その時にちらりと見えた答案用紙は、真っ赤な文字で埋め尽くされていた。『お勉強組』入会したての新入生は、何かと大変らしい。


 僕は使う必要のなくなった赤ペンを筆箱の中へと収めると、まっすぐに視線を前へと向けた。自分の席から丁度見えるその文字に、僕は頭を悩ませる。


 ――日直。明日、僕の日直の日だ。手紙を書くと約束をした。けれど、今の彼女には届かないのではないか。そんな風に思った。居場所をなくした『檸檬のおばけ』は地面に転がり落ちて、いよいよ人間たちへ復讐を始めたのかもしれない。そう思う程の変貌ぶりに、僕は彼女と会うことを躊躇していたのだ。


 一日の使命を終えた僕は、『お勉強組』の黒瀬を残して早々に教室を出た。見慣れた景色から極力意識を逸らせながら、僕は家路についた。僕に付きまとっていた幽霊が、怨霊となって現れるのが悲しかったから。


 家に戻ると僕は鞄を床に放り投げたまま、しばらく天井を仰いでいた。塾の時間が迫っているというのに、僕の頭の中はたった一色に塗りつぶされている。彼女の机がなくなったと同時に、僕の中の彼女という全てがなくなってしまったような気がした。最後に交わした、約束も含め全てだ。姿かたちだけでなく、思い出さえも僕の妄想だったのかと思えてしまう程に、僕は彼女を信じられなくなっていたのだ。


 結局、僕は時間ギリギリまでその場にお尻を張り付けたままでいた。母から声を掛けられ我に返り、黄色い便箋の代わりに黄色い鞄を手に取った。自転車にまたがり母が許しをくれた米粉パンを口に放り込むと、ペダルを踏む足に力を込めた。視界の端にうつる超おんぼろアパートからわざと視線を逸らし、僕は曲がり角をゆっくりと曲がった。いつも恨めしく眺めていたコンビニにも用事はない。入り口で群がっている同級生を尻目に、僕は受験生の顔になった。


 手紙を渡さなかったことは、塾で問題集と向き合っている時にもずっと頭の中を輪廻し続けた。今ならまだ間に合うのではないかという僕と、もう会わなくてもいいという僕。またしても正反対の僕が、脳内会議を繰り広げている。


 今回はどうやらレモンを遠ざける、天使様の勝利らしい。それを天使と呼んでいる時点で、僕の本心が浮き彫りになっている気がしたが、知らないふりをした。


 家に帰ると、躊躇をなくすために机の奥底にしまい込んだレターセットをゴミ箱の奥底に捨てた。そうでもしないと、またしてもレモンに手が伸びてしまう意志の弱い僕がいたのだ。不貞寝するように布団の中に潜り込むと、僕はゴミ箱に背中を向けて体を丸める。


 レモンは誰にも食べて貰えない。最初から、捨てられる運命だったのだ。僕は目を閉じると同時に、彼女と出会う前の自分へと意識を巻き戻していた。


 翌日。予定通り、僕の日直の日がやって来た。黒板の端に書かれた名前を見るたびに肝を冷やしていた僕は、なんだかその名前の羅列が囚人名のように思えて仕方がなかった。こんなにも日直の日を、呪ったことはない。


 昼休憩の時間がやって来た。と言っても、特段やることはなにもない。日直の仕事も失った僕は、教室の隅で秒針が時を刻むのをただぼんやりと眺めていた。そのまま三十分間動かずにいればよかったものを、僕は疼くからだを留めては居られなかった。わずかな休憩中も勉学に励む『お勉強組』と一緒に教室を出て行った僕は、彼らとは反対方向へと歩き出した。自然とその足は、約束の場所へと向かっている。手紙は出していない。そこにいるはずもない。なのに、どうしてか期待してしまうのだ。大切な果実をゴミ箱へと押し込んだ僕を、呪いに来てはくれまいかと。


 何の気になしに、廊下の窓を覗いてみた。駐輪場から既に遠く離れたここからは、向かい合わせに下級生の教室となっている棟が見える。全く同じ形の構造物が目の前に聳え立っており、自分の立っている場所が大きな鏡に反射しているようであった。だが鏡越しの世界に、時間を持て余して彷徨う人間の姿は見当たらない。外観が同じ建物であっても、中に住まう人間たちは全く異なっているのだと実感した。建物を隔てている数メートルほどの空間が、決して重なり合うことのないパラレルワールドと分断しているかのように感じられた。


 だからだったと思う。僕の欲望にも似た気持ちは、急く心を具現化させた。向かい合わせに僕がいるはずの位置に現れた、まばゆい閃光。思わず足を止めた。心臓が不規則に鳴り響くのが分かった。思わず顔を背けてしまいそうになる眩しい光に目を細めながらも、僕は光が行く先を視線の先で追いかけた。その先にあるのは、約束の場所。


 待っていたぞ、『檸檬のおばけ』!


 僕は窓に貼り付けていたおでこを引きはがすと同時に、しばらく立ち止まっていた廊下を走り出していた。壁に阻まれ向かいの棟は見えなくなったが、その光が進む先を必死に脳裏で追いかけた。もはや走りなれた、体育館へ続く渡り廊下を抜ける。約束の場所へ続く道は一本しかない。下級生の棟から来たとしてもここで合流するはずだ。前に居なければ後ろだと頻繁に確認するも、僕を追ってくる人影すら見当たらない。もう先に行ってしまったのだろうか。そんな期待に胸躍らせ、僕は前だけを見ることにした。


 彼女に会ったら、何と言おうか。僕はそのことばかりを考えていた。手紙を出さなかったことを謝ろうか。それとも、あの時すれ違った『見間違いの彼女』のことを聞いてみようか。きっと彼女のことだ。そんなの私じゃないよ、と笑ってくれるに決まっている。


 緊張と期待を胸に込め、僕は迷うことなく体育館の扉を開いていた。静まり返る空間の中、置き去りとなっている教科書たち。子どものような笑い声が響く、天真爛漫な彼女の姿。すべてを洗い流してくれる清涼感溢れるあの香り。僕の求めるすべてがそこに――。


 本当は分かっていた。あるはずがないということを。


 ぽっかりとひらけた空間に漂うのは、むせ返るような熱気と鼻を擽る埃の匂い。誰一人いないその場所に、僕は小さく息を吐いた。


 馬鹿らしい。何を期待していたんだ。自分から、捨てておいて。僕はゆっくりと体育館の中心部へと足を進めた。立っているだけで額には汗がにじみ出て、次第に頬を伝って板張りの床へと落ちて行く。


 知らなかった。こんなにも、恋焦がれる存在であったのだということを。失うまでどうして気が付けなかったのだろう。彼女は飾りなどではない。役目も果たせず、捨てられていいはずなどない。当たり前にそこにいるから安堵し、だからこそなければ物足りなくなってしまう。鮮やかな黄色いその果実が与えてくれる心の晴れやかさを、僕は失ってから気が付いてしまったのだ。


 胸焼けするほどの重たい心情を洗い流してくれるものは、もうどこにもなかった。僕は次の授業が始まるまで、しばらくその場に蹲り天井に挟まったままのバレーボールを眺めていた。豪雨が襲ったのかと見間違う程の汗が、白いシャツをべったり僕の背中に貼り付けるまで。


 使命を終えて家に帰ると、僕は昨夜ゴミ箱の奥底にしまい込んだレターセットを引っ張り出した。袋に入った便箋は半分に折れ曲がり、ひどくしわになっている。とてもじゃないが、人様に差し出すようなものとは思えない。けれど僕は、ペンをとった。あの時と同じように、日付だけを書いた便箋を封筒の中へと押し込む。


 書いたのは、僕の日直の日ではなかった。けれどもうあの体育館に用事はないのだ。日直でなければならない理由もない。


『逢瀬』


 君は明日、約束の場所に来てくれるだろうか。

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