2-7 僕の知らない『幽霊』の顔
あれから一週間が経った。学生には期末テストというものがあって、僕は気が付くとそのテストに追われ彼女のことを忘れつつあった。家に帰る途中いつも目に留まる超おんぼろアパート。いつも真っ暗な部屋に、彼女はいない。
本当は、最初からいなかったのかもしれない。教室にもどこにも、彼女がいたという形跡は少しも残ってなどいない。幽霊に化かされていただけなのかもしれない。あの部屋に手紙を届けに行ったのも、全部幻だったのかもしれない。そんなことを思いながら、僕は坂を上っていた。
テストが終わった日、突然黒瀬がこんなことを言い出した。
「なあ、俺さ。専門行くことにしてん」
突如出た、黒瀬からの裏切りだった。
「え? 進路、決めたの?」
「まあ……。俺、野球以外に好きなの言うたら車かなって思って。親戚のおっちゃんが、自動車整備士やっとって、免許取ったら働かせてくれるゆうからさ」
黒瀬はそう言うと、照れくさそうに鼻の下をポリポリ掻いていた。ついに唯一頼りにしていた黒瀬にまで置いて行かれてしまった。と言っても最初から僕は、自分の意志とは関係なく大学に行くと言っていたので、黒瀬にとってはやっと追いついたくらいに思っているのかもしれない。だが大きな一つの目標を持っている黒瀬を見ていると、とてつもなく羨ましく思えた。
「そういう訳で、俺も今日から『お勉強組』や」
「今日からってことは、期末テストに期待は出来そうにないね」
「厳しい事言うなや」
今まで野球道具がぎっしり入っていたスポーツバックの中身には、ずっと置き勉されていた教科書たちが押し込まれている。余程机の中に鎮座していたらしい。その姿は新品そのものであった。
「今日は三年二組の教室でするねんて。青野も行く?」
黒瀬の温かい誘いに、僕は首を振った。
「そうか、塾があんのか。じゃあ、しゃあないな」
理由を述べたわけではないが、黒瀬は一人納得した様子でスポーツバックを持ち上げる。だがあまりの重さが腰に来たのか、立ち上がった直後に地面にひっくり返っていた。
「誰や! こんな置き勉してんのは!」
一人ツッコミをかましている黒瀬に、教室に残っていたクラスメイトが声をあげて笑っていた。僕もその様子を見て、少しだけ頬を緩ませた。けれど、心からは笑えずにいた。
今自分の求めているものが、とことん行方不明になっていく。
夏休みまで数週間を切った。残りの授業はテストの返却と、二学期最初の予習くらいだろう。といえども夏休みにはみっちり夏期講習が入っており、受験生に休みの日など存在しないらしい。帰り道にすれ違った小学生たちの姿を見ると、自分がおじいちゃんになってしまったような感覚を覚える。あれほどにも面倒だった、夏の自由研究が懐かしい。
いつものバス停に着くと、そこには行列が出来ていた。この時間帯はここの学校の生徒がほとんどを占めるのにも関わらず、そこには病院帰りのおばあちゃんや見かけないサラリーマンの姿もあった。鉄板のような分厚い鞄を抱えたサラリーマンは、何度もお辞儀をしながら電話越しに説明をしている。
「もうすぐ遅れているバスが来ると思うのですが……」
その一言だけで、僕はすべてを察した。どうやらバスが遅れている。僕が乗るべきバスではない。それよりも前に出発するべきだったバスが未だ到着していないのだ。それと同時に近くで救急車のサイレンが鳴り響いた。どうやらここにたどり着くまでの間に、事故が起きているらしい。
電話を終えたサラリーマンは携帯電話をポケットの中に押し込むと、舌打ちをしながら何度も腕時計を確認していた。
おそらく遅れて来るバスはぎゅうぎゅう詰めであろう。街中でさえ人混みを嫌う僕だ。このサラリーマンと肩を寄せ合いバスに乗り込むことになるだろうと想像しただけで、気が重たくなった。
僕は止まるべきバス停を無視して通り過ぎると、そのまま一直線に帰り道を進んだ。どうせ待っていても遅くなるだけだ。一歩でも前に進んでおきたかった。別にどうしても塾に行きたい訳ではない。けれど、どこかじっとしていられなかったのだ。
しばらく歩道を進んでいると、交差点での事故車を見つけた。大きなトラックがすべての車の行く手を阻んでいた。車自体に大きな損傷はないが、場所が場所なだけに他の車が動けずにいるのだ。しかもその後方には僕が乗るべきだったバスが止まっている。駆けつけた警察官によって交通整備をされているが、あのバスが隙間を通り抜けるにはかなり時間がかかりそうであった。通りすがりにバスの中を確認した。通路に立っている乗客も多く、待っていたとしても乗れていたとは限らない。僕の選択は正しい。そう言い聞かせながら、僕はさらに前へと足を進めた。
その日はいつも通る帰り道とは違う道を選んだ。多少狭いが、徒歩で帰るのであれば断然こちらの方が近い。昔ながらの家が立ち並ぶ抜け道を歩いていると、心躍る香りが僕の鼻を擽った。ハッと顔をあげる。目の前から黄色い閃光がやって来た。もちろんのこと、トラックではない。真っ直ぐ自分の方へと向かってくる彼女を目にして、僕はその場に足を止めた。
知らない人だ。そう、信じたかった。
目の前から歩いてくる『檸檬のおばけ』は、一人ではなかった。遥かに年上らしき男性の腕に纏わりつくようにして歩く彼女の姿を、僕は確かに見つけてしまったのだ。咄嗟に隠れなければ、と思った。けれど動けない。またしても金縛りにでもあったかのような感覚に陥り、僕は固い地面に足を張り付けていた。だんだんと近づいてくる彼女の顔が、僕の方を向く。しっかりと、目があった。僕の目は彼女を捕らえて離さない。僕は彼女の顔を見つめたまま、小刻みに首を横に振っていた。
――知らない。知らない人だ。
素顔を覆い隠すほどの濃いアイシャドウが、彼女の淡麗な表情を仮面で覆っているように見えた。
彼女は僕からあっさりと視線を外すと、まるで僕が最初からそこにいなかったかのように隣をすり抜けて行った。すべてを洗い流してくれる清涼感が、今では重たくのしかかる。後ろを振り返ることが怖かった。
かつての超おんぼろアパートでの出来事を思い出す。あの時は、幽霊がいるかもしれないから恐れていたのだ。けれど、今回は違う。その幽霊が、いなくなることが怖かった。
だんだんと薄れていく香りと足音に、僕はようやく一歩を踏み出した。路地を抜け終わる頃になって、ようやく後ろを振り返る。そこには何もないし、誰もいない。僕の知る彼女はもう、どこにもいなかった。
僕の目の前を、僕が乗っていたであろうバスが走り抜けていく。こんなことなら、大人しくバスを待っておけばよかった。安心した表情を見せる窓越しのサラリーマンを、僕は静かに見送った。
ぽつりと冷たい水滴を鼻先へと感じ、それは次第に僕の肩を激しく濡らした。僕はその日、初めて塾をずる休みした。




