2-6 本物の『幽霊』になった
と言っていた、一時間前の自分をぶん殴りたい。普段なら棒人間状態だった僕がむやみに手を出すものだから、逆にチーム内を混乱させてしまった。やはり僕は最初から影の存在であるべきだったのだ。早々にローテーションでコートをから抜けた僕は、すぐさまゼッケンを脱ぎ捨てて黒瀬へと押し付ける。
「なんや、もう諦めたんかいな」
「僕にバレーは向いてないよ。この明るい色も」
「そうか? よう似合うてたで」
黒瀬にゼッケンを手渡すと、僕は芋虫のように体育館の隅で蹲り座っていた。黒瀬はそれを気にしてか、自分の番が回ってくるまでゼッケンを手に持ったまま僕の隣を動こうとはしなかった。
バレー部員の声とシューズの擦れる音、甲高い笛の音がしばらく僕の脳内を覆いつくしている。それ以外に何も聞こえない状況の中、黒瀬がポツリと呟いた。普段なら聞き逃しているところ、彼の発した言葉の内容がそうさせてはくれなかった。
「そういえば、『檸檬のおばけ』。あれから会うた?」
ドキリとした。自分自身嘘がとことん下手なのはわかっていたので、目も合わすことなく首を横に振るだけに留めて置いた。
「そうか。あいつ、ホンマの幽霊になってしもたな」
「……それ、どういう意味?」
それに関してはさすがに気になって、僕はうつむいていた顔を勢いよくあげた。黒瀬は汗ばんだ額を手の甲で拭いながら、言葉の意味をかみ砕いて話し出した。
「清田や。ついにおらんくなってしもたな」
いなくなっただって? 何を言っているのだろうか。彼女とは昨日、会ったばかりだ。僕に内緒で、どこかに引っ越してしまったとでもいうのだろうか。それともまさか、事故にあったとか――。
「机、のうなっとったやろ」
「――っ」
その言葉に、頭の中をかき乱していた音が一気に消え去った。閉め切られた体育館が開かれたその時既に、彼女の居場所はなくなっていたのだ。体育館だけではない。あの教室の中にも、この学校にも。
僕は思わず立ち上がり、その場を駆け出していた。去り際に黒瀬が何か言っていたようだが、僕に耳には届かなかった。渡り廊下を走り抜け、誰もいない階段をかけあがる。誰にも見つからない様に学校に忍び込んでは、忽然と姿を消す『檸檬のおばけ』。もしかすると、誰もいない今なら、教室にいるのではないかと期待した。
僕は自分の教室まで戻ってくると、相手に気づかれないようにゆっくり扉を開く。電気の消えた真っ暗な教室の中、そこにいるはずの『檸檬のおばけ』に気づかれないように。
そこに『檸檬のおばけ』は、いなかった。
僕は教室の隅におかれていた、彼女の机があった場所へと向かう。あえて分かりづらくするために机を置く幅を広げていたので、何とも思わなかった。よく考えれば、行広さんが一番後ろのはずはないのだ。その後ろに、空っぽの机がいつまでもあったのだから。
どこかに紛れ込んではいまいか。そう思い、僕は教室の右端から一つずつ机を数えて回ってみた。だがやはり、彼女のものであるはずの机は、どこにもなかった。
もうない。ここには。彼女の居場所は、ここにはない。このクラスになってから三ヶ月、最初から持ち主なんていなかったのかもしれない。けれど、いざあったはずのものがなくなった時の空白は、僕にとってあまりにも大きすぎた。一日の間にいくつも同時に失った僕は、その場に思わず座り込んだ。
約束の場所。
彼女が存在しているという証。
ただ生き抜くことに必死な、一つの命。
繋ぎとめる鎖はどこにもない。自由だった。どこにでも行ける。でも、自由であるがゆえに、最大の自由を失ってしまった。彼女は今、どこで何をしているのだろうか。
教科書で重たくなった机がひしめき合う教室の中で、僕は世界に放り出された野良犬のことを考えていた。




