2-5 僕を動かすきっかけはいつも
「ということで、体育館の鍵は閉めない方針に変わりました。最後に体育館を出る人は、扉は閉めるようにだけ気を付けてください」
朝のHRで担任から告げられた内容である。新学期になってここ三ヶ月間、日直に与えられし使命が終了した。なんでも野良犬の駆除が報告されたらしい。気の毒なことだ。僕たちの平穏のために、たった一つの尊い命が犠牲となったのだ。
人間たちは傲慢だ。勝手に命を捨てたくせに、危害が及ぶと分かればいとも簡単に排除するなんて。ならば噛まれて良かったのかと聞かれると僕も素直に頷くことが出来ないので、実際のところ同じ人間の類なのである。
「というか、最初からそれで良かったんちゃう?」
隣の席から声を潜めてそんな言葉が告げられた。おそらく黒瀬は犬のことではなく、日直の使命のことを言っているのだろう。確かにそうだ。横開きの扉と言えど、しっかりと隙間なく閉じて置けば動物が自ら開けて入ることはほとんどないだろう。日直が命からがら鍵まで閉める必要は全くなかったように思う。
僕は黒瀬にだけ分かるように、小さな頷きで返事をした。
「あーあ。結局なくなっちゃったね」
HRが終わってすぐ、とある女子生徒がそんなことを言っていた。なんだ、そんなに日直の仕事が恋しかったのだろうか。それとも犬の命のことだろうか。仕事が無くなるのと命が亡くなるのとでは、随分と意味合いが代わって来るがその発言だけではどちらの言葉で文字起こしをしていいのか分からない。僕は再び通りすがり生徒Aになりきり、彼女たちの話に耳を澄ませていた。
「でもさ、いつかこうなると思ってなかった?」
「思ってた。なんなら遅い方だよね」
「来るわけないじゃん。学校で会ったことないよ?」
「期待してたんじゃない?」
「その期待も裏切って、結局バイバイか」
「自業自得」
「それね」
女子の会話はやはり怖い。僕は心底うんざりしている球技大会の準備へ向かうため、その会話はそこまでにして廊下を歩き出していた。担任も別に犬に期待していた訳ではないと思うが、と頭の端で勝手なロジックを組み立てていたところだった。
「青野、ちょっと頼まれてくれへんかー?」
廊下の端からとてつもない大声で僕の名前を呼ぶ輩がいる。この訛り具合、彼以外他に居ない。噂話に勤しんでいた女子たちも振り返る声に、僕は顔を真っ赤にして彼の元へと駆け寄った。
「黒瀬、声大きいよ」
「いや、ちょっと急いどったんや」
そう言うと黒瀬はやたらと大きな段ボール箱を、僕の胸元に押し付けてきた。咄嗟に受け取ってしまう癖を直したいが、こればかりは仕方がない。僕は押し付けられた段ボールの中身を覗き見る。そこにはカラフルなマジックペンと大きな画用紙が丸めて入れられていた。
「相田から頼まれたんやけど。俺こういうの、苦手やねん」
「何する用?」
「トーナメント表、書くねんて」
よし来た! 思わず声に出そうなところ、ぐっと抑え込んだ。よかった、リーグ戦ではなくて。というよりも、こんなもの事前に作ってしまえばいいものを、今まで一体何をしていたのだろうか。昨日あれほどの部員総動員で準備をしていたのだから、作って貼り付けておけばこんなに焦る必要もない。
「相田くんは?」
「バレー部の打ち合わせがある言うて、部室に行ってしもたで」
そうだった。相田はバレー部員なのだった。あまり僕に文句を言って来ないので忘れていたが、今日はさすがにボールを拾わない棒人間に対して苦言を漏らすことだろう。ここで恩を売っておいても良さそうだ。
僕は黒瀬に続いて、体育館へと荷物を運んで行った。広い体育館には三面びっしりとコートが張り巡らされており、早く着いた生徒が数人隅に溜まって話をしている様子だった。トーナメント表を貼る場所を決めると、僕はマジックの蓋を引っこ抜く。
「これ、クラス別のチーム名やって」
僕の知らない間に、チーム名なんて完成していたらしい。僕は提示されたそのままの名前を画用紙に書き写していく。その中の一つがふと目に留まり、書いている手がその場で止まった。
「どないした? 間違えてもええで」
「ううん。なんでもない」
僕は何もなかったふりをして、続きを書いた。とどまっていた箇所はインクが染み込み、少しだけ不細工な仕上がりになってしまったが気にしないでおこう。
すべてを書き終えて画用紙を貼り終えると、僕の今日の仕事は完全に終わった気になった。まさかまだ始まっていないだなんて。それに気が付いた僕は、更衣室へ向かう時間が地獄の様に思えた。黒瀬の後に続いて重たい足を進めている途中、バレー部の部室から相田が顔を覗かせた。僕たちの顔を見つけるや否や、爽やかな笑顔を携え片手を振りながらこちらに駆け寄って来る。
「ごめん、ごめん! 助かったよ。昨日の帰りに思い出してさ。すっかり忘れてた」
「ええで。その代わり、ミスしても見逃してや」
「黒瀬は違うチームだろ」
「引換券があんねん」
「どういう意味だよ」
そう言いながらも相田はじゃれ合うように、黒瀬を肘で小突いていた。黒瀬の言う引換券とは、おそらく僕が以前提示した約束事のことだろう。こういうところはしっかり守ってくれるから、黒瀬には本当に感謝している。おかげで僕の出番は少なくて済みそうだ。
「これ、先に渡しとく。今日よろしくな」
黒瀬の後ろで縮こまっていた僕に、相田は一枚のゼッケンを手渡して来た。どうやら緒戦から僕たちのチームは試合があるらしい。それをそのまま黒瀬に引き渡そうとしたのだが、ふとその手が止まった。僕の手を引き留めるものは、いつだって『彼女』だ。
僕がそのゼッケンを黙って見降ろしていると、相田はさわやかな別れ台詞を告げてその場からいなくなった。
「チームレモンイエロー! また後でな!」
手渡されたのは、鮮やかな黄色いゼッケン。おそらくチーム名の由来はここから来ているのだろうが、僕にはこれが彼女からのメッセージのように思えて仕方がなかった。
「どないする?」
ゼッケンへ伸びる黒瀬の手から遠ざけるように、僕はそれを自分の元へと引き寄せる。
「一回、出てみる」
「おお、ええ心がけやな」
彼女に背中を押されている。たまには彼女のように、自由な世界を飛び回ってもいいのかもしれない。そんな都合のいいメッセージに、僕は少しだけ人生を前向きに生きてみることにした。




