2-4 逢瀬って大変ですね②
「ライム、ライム。応答せよ」
どこからか、宇宙人の合図が聞こえてくる。僕は一度立ち止まったが、周囲を見渡す気にもなれず気づかぬふりをして、もう一歩を踏み出した。するとその声の主は慌てた様子で、僕の前に姿を現したのである。
「こっちよ、こっち!」
なんとあんなにも逃げ隠れていた黄色い閃光が、自ら飛び出して来たではないか。太陽の光を煌々と照り返す黄色い髪の毛。檸檬のおばけが、路地の隅から手招きしている。
なんだ、捨てられていなかったのか。僕は先ほどまで抱いていた気持ちをすっかり忘れ、思わず顔にうっすらと笑顔を浮かべながら彼女の方へと駆け寄っていた。路地の近くへとたどり着くと、彼女はしーっと人差し指を顔の前に立て、さらに路地の奥へと進んで行った。僕は人一人分の距離をあけて、彼女の小柄な背中を眺めながらついて歩いた。毎日見ている制服のはずなのに、なぜか彼女が身に着けていると知らない学校の生徒ではないかと勘繰ってしまう。前に見た姿と同様のはずなのに、改めてその姿を観察すると実に新鮮に感じられた。
裏道へと続く細い路地を抜けると、さらに細い一本道へたどり着く。下校時に使う生徒もいるが、狭いし陰気クサくて僕は使っていない。なんて、陰気な僕に一番言われたくない言葉であっただろうか。
彼女はそのまま数メートル進んだかと思うと、突然僕の視界から消えたのだ。ぼんやりと彼女の背中を追っていた僕は、思わず立ち止まり驚いた顔をして周囲を見渡した。そうか、こうやって彼女は身を隠していたのか! まるで忍者が雲隠れをするような身の動きに、僕は完全にその姿を見失っていた。するとすぐ真下、足元から声が聞こえる。
「こっちよ、ライム」
「え?」
見下ろすと、なんと彼女はその場にしゃがみ込んでいただけであった。なんだ、彼女が特殊なのではなく、僕がどんくさいだけだったか。自分の能力に卑下しながら、僕は彼女と同じようにその場へとしゃがみ込んだ。目の前には空間を隔てるような錆びた金網があって、そこにだけぽっかりと人一人分ほどの穴が空いていた。これは一体どうしたものかと眺めていると、彼女はまるで猫が隙間を抜けるように破れた金網に身体を押し込み反対側へと抜けて行ったのだ。随分と大きな穴だと思っていたが、人が抜けるにはかなり小さいようだった。猫やタヌキの通り道ではないかと勘繰ってしまう。
「ほら、君も」
「え?」
金網の向こうでは、彼女が手招きをしている。這いつくばって抜け出たその先は、砂地道になっている。金網で分断されたこちら側は、コンクリートで舗装されているが、それでもその場に寝転がるには随分と勇気がいった。夏服である女子生徒の制服は白いシャツに紺色のスカートであるが、ここからでも砂ぼこりに全身が汚れているのが見て取れる。少しだけ、躊躇した。制服が汚れることによって、母になんて言い訳をしようか。そんなことを頭の片隅で考えていたのだ。
だが僕が数秒立ち止まっている間に、路地の向こう側から誰かが歩いてくる気配を感じとった。そのことで思考が停止し、僕はその場に固まったまま動けなくなる。すると破れた金網の向こうから、にゅっと白い手が伸びてきた。
「ライム、ライム! 早く!」
その呼びかけに、もう迷ってはいられなかった。僕はその手に誘われるように、地面へと這いつくばる。彼女の手は僕の腕を掴み、力強く向こう側へと引き寄せた。あまりにも力強く握られたその手に、僕の胸は動悸を打った。もがくように足をばたつかせているうちに、僕は金網を抜けていた。その場に寝ころんだままでいると、彼女は掴んでいた手を離して僕の肩をトントンと叩く。
「立って。隠れるよ」
「え?」
「人が来る」
そうだった。忘れていた。僕たちは、『人目を忍んで』会っているのだ。僕は慌てて立ち上がると、彼女が手招きする木陰の傍へと身を隠した。しばらく息を殺していると、こちら側へと近づいてくる足音が大きくなっているのが分かる。僕は向こうから姿が見えぬよう、必死に身を屈めていた。ちらりと隣を見ると、息がかかるほどの距離に、彼女の横顔がある。
「――っ」
思わず声が出そうになって、僕は必死に両手で自らの口元を抑え込んだ。視線を変えようとあちこちキョロキョロ眺めていると、金網の向こうを男子生徒が一人歩き去っていく後ろ姿を視界の端にとらえた。こちらに警戒している様子もなく、どうやら僕が金網の前ですったもんだしていることに気が付いてはいないようだった。
僕は思わず息も同時に止めていたので、彼が立ち去ったことを確認すると大きく息を吐いた。
「はあー。危なかった……」
貯め込んだ息と同時に、小言が零れ落ちた。僕が大きく息を吸い込んでいる様を見て、彼女はしばらく無言を貫いた後、吹き出すように真横で笑い声をあげ始める。まるで幼い子どもがはしゃいでいるように、実にあどけない笑い方だった。その声に先ほどの男子生徒が帰って来やしないかと心配になったが、その様子はなさそうであった。
彼女が何に対してそんな笑い声をあげたのか不思議に思い問い詰めようとしたが、既に僕の隣から離れ茂みの奥の方へと向かって行ったので、それは叶わなかった。
僕も彼女の後ろに続き、うっそうと茂っていた場所から抜け出た。すると地面が石畳に変わり、その先をたどるとそこには小さな祠がみえた。反対方向には人一人がくぐれるほどのこじんまりとした鳥居もあって、一応何かしらの神様がまつられている場所なのだということは理解した。
彼女は硬貨の代わりに一枚の落ち葉を供えると、両手を合わせて祈り始めた。一体どういったご利益があるのか全く分からないが、不法侵入も良い所なので多少悪い気がする。お供え物が拾った落ち葉なのもいかがなものかと思うが、何もお供えしないのもいけない気がして、慌ててポケットの中をまさぐった。
手に触れたものに、一瞬躊躇した。こんなもの供えられても、神様とて良い気がしないだろう。けれど落ち葉よりもマシかと思い、袋の中で粉砕されたレモンケーキを取り出して祠の前へと置いた。そしてそっと両手を合わせ、とにかく色々すみませんと心からの謝罪を述べておいた。
ちらりと彼女の方を向くと、彼女は握りつぶされたケーキ、ではなく、僕の方を真っ直ぐに向いていた。
「ひえっ」
先程よりもさらに距離が近くて、次こそヘンテコな声をあげてしまった。すると彼女はより大きな笑い声をあげて、その場に笑い転げて見せたのである。
「君ってさ。無口なのに、にぎやかだよね」
なんだ、それは。悪口なのか誉め言葉なのか分からない。だが悪い気分にはならなかったので、あえて反論はしないでおいた。
彼女はひとしきり笑い終えると、祠の前にボロボロの鞄を下ろした。ドサッと重たい底がたたきつけられる音が、その場の静寂を割った。この音を聞くのは二度目だ。相変わらず授業にも出ないくせに、その鞄は今日も今日とて教科書がパンパンに詰まっている。彼女は鞄のチャックを開くと、教科書の束の中から一つの封筒を取り出した。それを見た僕は思わずぎくりとした。すぐさまそれから、目を逸らす。
「会えなかったら、どうしようかと思ったよ。せっかくお熱い恋文貰ったのに」
「恋文じゃないです」
彼女の言葉を咄嗟に否定した。実際の所そういうつもりで自分も書いたところもあったので、神様の目の前で嘘をついてしまったことに少しばかり後悔した。
「でもくれたね、手紙」
「約束しましたから」
「そっか。ありがと」
そこで彼女の方へ視線を戻すと、手紙を握る白い手は何度か愛おしそうにその封筒を上から撫でている様子だった。それを黙って見ているとだんだん気恥しくなってきて、僕は周囲を見渡すように首をあちこちに振り回してみた。
小さな鳥居祠の周りは鬱蒼と木々が茂っており、他に置かれているものはない。自分たち以外に人影はなく、いるとすれば大きな巣を張ったジョロウグモと遥か上空で飛び交っているカラスだけである。
僕が顔を上げたままでいると、足元から心地よい彼女の声が流れ込んできた。
「大丈夫。ここ、全然人来ないの。鳥居の向きが通学路よりも奥まっているから、学生でも知らない人ばっかりなんだ」
「僕も、知りませんでした」
「じゃあ、私たちだけの秘密の隠れ家ね」
変わらず気恥しい言葉をいう人だ。それにはあえて返事をせず黙っていると、ふと昼間のことを思い出した。そうだ、僕らの約束の場所はあの体育館であったはずだ。元々学校に来づらい状況でもあったであろうし、あれだけ人がいる体育館にいて欲しかったとは言わない。
だが、一言くらい謝罪の言葉をくれてもいいのではなかろうか。あんなにインドア派の僕が、体育館の周囲を五周もしたのだ。バレー部員には不審者扱いされそうだった訳だし。
そこでふと思い直す。いや、待てよ。確かに僕は、日付を伝えた。そう、日付だけを伝えたのだ。会う場所も、会う時間も書かなかったのは僕の方だ。昼休憩のあの体育館で会うこと決めつけていたのは、僕の勝手な思い込みなのかもしれない。そう思うと彼女を責めたてるのもちゃんちゃらおかしいような気がしてきて、僕は彼女に苦言を漏らすことをあっさりと諦めた。
むしろ彼女が僕と同じことを考えてあの体育館に来ようとしていたのだとしたら、僕から謝らなければならない。そのためにも、一応確認しておく必要があると思ったのだ。僕は意を決して言葉を紡いだ。
「あの、今日の昼休憩なんですけど」
「ああ、いなかったの怒ってる? ちょっぴし色々あってね」
彼女はそう言うと、少しだけ鼻で笑うように息を吐いた。どうやら約束の場所と時間の共通認識は、間違っていなかったらしい。来るつもりではあったようだ。
色々。その色々がなんのことか、興味がなかったわけではない。けれど、待てど暮らせど沈黙が続くばかりで、彼女はその続きを話そうとはしなかった。おしゃべりな彼女が言わないということは、言いたくないという事なのだろう。僕がそのまま黙っていると、彼女は出遅れたように一言だけの謝罪をくれた。
「ごめんね」
その謝罪が何のことに対してなのかは分からないが、昼休みに出会えなかったことに関してであると勝手に理解した。いや、そのことに関してはもういいのだ。むしろきちんと約束の場所を記さなかった僕も悪かったのだ。自分も謝ろうと思ったが、なぜか言葉は出てこなかった。まだ緑色の熟していない果実が、もぎ取られて地面の上に転がっている、何とも言えない心のもやが晴れずにいた。固い果実を踏みつけた右足から爽やかな檸檬の酸味と、熟れ切れていない特有の苦みが僕の鼻の奥を燻ったような気がした。
僕が黙りこくっていると、彼女は視線を足元に落しながら言葉を続けた。
「本当は色々とお話ししたかったんだけど、君も予定あるでしょ? また今度にしよっか」
彼女の提案に、僕の気持ちが逆なでられた。普段なら塾もあるからこれで、と先に帰ってしまうところなのに。もう少しだけ、この時間を一緒に過ごしたいと思ってしまっていた。
「いいよ、ちょっとだけなら」
「え? 本当?」
本当は良くなんてなかった。僕は黄色い鞄を家に取りに帰るという使命がある。それに母に何の連絡もなく塾に直行しては、心配をかけることになりかねない。次々と頭の中で断る理由が駆け巡っていたが、彼女の上擦った声に僕は、『少しだけ』という都合のいい言葉に自分を甘やかした。
「君、勉強得意?」
「え?」
「ちょっと教えて欲しいの。ここなんだけどさ」
彼女は惜しみなく時間を利用しようと、さっそく開いたままになっている鞄の中から数学の教科書を引っ張り出した。角が降り曲がっているボロボロの教科書には、いくつかちぎられたノートの切れ端が挟まっている。栞代わりにはせていた紙きれを手に取ると、そのページを開いて僕の目の前に突き付けた。
「何度やってもこの公式通りにいかなくて」
彼女が示す問題に、僕は深く納得した。塾でも学校でも、その問題を二度も間違えた僕が言うのだ。その問題は、難しい。
対策を得た僕に恐れるものはなく、自信満々に自分の鞄からノートを一冊取り出した。真新しい真っ白のページを開くと、式と答えを合わせて書いて見せた。
「この公式だと回りくどくなるから、こっちでやった方がいいです」
随分と上から目線な言い方だ。僕が塾の講師から言われた言葉をそのまま模倣して言ってみた。すると彼女は何度か瞬きを繰り返しながら、細かく頷いて見せた。
「へえ。そういう方法もあるんだ。面白い事教えてもらっちゃった。ねえ、そのページさ、貰っても良い?」
「え?」
「記念に」
何の記念だというのだろう。その理由は分からなかったが、特段困ることはないので僕は躊躇することなくその一ページを手渡すことにした。筆箱からはさみを取り出すと、丁寧に綴じられているギリギリのラインを切り取って見せる。
「どうぞ」
「ご丁寧に、どうも」
彼女はそれを受け取ると、丁寧に二つに折りたたんで教科書の中に挟み込んだ。先程の栞の代わりとなっていた紙きれが、落ち葉のように地面へと舞い落ちる。彼女の指が届く前に、それは風によって攫われて行った。彼女はその様子を、少しだけ眉をひそめて見送る。
「行っちゃった。ゴミになっちゃうかな」
「朽ちて土に還りますよ」
「そっか。だと良いね」
彼女は持っていた教科書を、無理やり鞄の中へと押し込んだ。何の気なしに中を見てみると、普段机の中に置きっぱなしにする人が多い歴史資料なんていう分厚い本まで入っている。一体どこで何のために必要だと言うのだろうか。
僕があまりにも鞄の中身を凝視していたためか、彼女はさっと鞄のチャックを閉じてしまった。その代わりに取って付けたようなお世辞を言った。
「君、頭いいんだね」
塾でもクラスでも良い成績ではないと自負しているが、そういうことにしておく。
「塾で習ったので」
「塾か。それって面白い?」
「え……」
彼女の質問に、咄嗟に何も言い返せなかった。答えは決まっているというのに、何を躊躇してしまったのだろう。
塾を面白いだなんて思ったことはない。強制的に勉強させられるところだ。だからといって不利益ばかりを被っている訳ではなく、学力低下は確実に防げていると思うし、自ら勉学で縛り付けることのできない学生には必要不可欠な場所であると感じている。
だが今の彼女を見ていると、塾に通っている自分の方が可笑しな人間に見えているのだろうと思ってしまったのだ。自由過ぎる、彼女を見ていると。
「楽しいですよ」
「へえ、いいね」
彼女はあまり重きを置かないような口調で返事をした。
なぜ嘘をついてしまったのか。これは一種の、彼女への当てつけだったように思う。君と僕は違うんだということを、自分に言い聞かせたかった。そうでもしないと、まぶしすぎたのだ。彼女の鮮やかな、レモンイエロー。
「せっかく会えたのに、ちょっとだけだったね。残念だな」
そう言って名残惜しそうに、重たい鞄を小さな背中に貼り付けた。彼女から別れの挨拶を告げられるのがとてつもなく寂しくなった。僕もまだ、ここに居たい気分だったから。
彼女だってまだまだ聞きたいことはあっただろう。他にも破られたノートの切れ端は、たんまり残っていた。おそらく僕の身を案じてのことだ。バスが出る五分前にここを出れば塾には間に合うだろうという考えで、チラチラ時計をみていたせいかもしれない。そういうところをスマートに出来ない僕は、こうやって女性に気を遣わせてしまう男になってしまうのだろう。最後の別れの挨拶くらい相手に期待を抱かせてやろうと思い立ち、必死に言葉を検索しまくった。
「また次の日直の日に」
結果出たのは、それだけだった。だが彼女はその言葉を聞くと、少し俯き加減だった顔をあげて、満面の笑みで僕の両手を握りしめたのだ。
「本当? また会ってくれるの? 嬉しい!」
まるで三歳児の感情表現だ。何一つ偽りのない、煌めく笑顔に僕は思わず顔を逸らした。僕は握られた手を一体どうすればいいのか悩んでいるうちに、彼女は僕の手を離して一瞬だけ言い淀んだ。
「あー……。そうか、そうだっけ。うん、じゃあ、次の日直で」
何かを飲み込んだ言葉に、僕は少しだけ不信感を抱いた。だが女性に気を遣わせる僕の性格だ。またしても僕のためを思ってあえて言葉を飲み込んだのだと感づいて、深くは追及しなかった。
「また、日にち。お伝えします」
「うん。ありがと。次からは体育館じゃなくて、ここにしようか。もし用事があったら、ばっくれてもいいからね」
「しませんよ」
「ありがとう、お真面目くん」
彼女は最後にお茶らけるような言葉を残し、先に鳥居をくぐって行った。
「六十秒たったら君が出て。一緒にいるところ、見られるとやっかいだからさ」
「……はい」
きっと僕の返事は風に流され彼女には届いていないだろう。遠いところで大きく手を振る彼女に、僕は小さなお辞儀で返事をした。
彼女の姿が見えなくなってから、きっちり六十秒間その場で秒針を追いかけていた僕は、ようやく顔をあげて歩き出した。彼女の気遣いのおかげで、塾に行く前に一度家に戻るくらいの余裕が出来た。かすかに残された柔らかく清々しい香りに包まれながら、僕は緩やかに口角をあげた。
彼女のことは、よく知らない。名前と住んでいるところ以外は、謎のままだ。大量の教科書を持って街に繰り出すのも、ボロボロのカーディガンと鞄をいつまでも愛おしそうに使っているのも、破られたノートを付箋代わりに使っているのも。僕には何も理解が出来ない。けれど、だからこそ彼女という存在が忘れられなくなるのだ。
全く正反対の所にいる人だから。
僕はまた四十日後、この場所に来る。彼女との、秘密の場所。




