EX II - 2 大きな水溜まり
「なに、この匂い……?」
窓から吹き込んでくる風に混じる、嗅いだことのない不思議な香りに、私が鼻をクンクンとさせていると。
お姉ちゃんは楽しそうに私を眺めて、ふふっと微笑んだ。
「意外と鈍いのね、お嬢さん」
「え?」
私が首を傾げた、その時だった。
「見えてきましたよ!船長!どこまでも広がる青い世界!まるで空を映したような綺麗な光景!……海が!」
御者席から、カイナの興奮したような大声が響き渡った。
「海……」
私は思わず小さく呟いた。本で読んだことはある。どこまでも続く、不思議で大きな水たまり。
けれど、実際に見たことは一度もない。
「ちょっとカイナさん!もう少し戸惑うリゼを観ていたかったのに」
「あっはははっ!申し訳ありません、船長!」
お姉ちゃんの楽しそうな文句に、カイナが海賊の役に入ったまま笑い飛ばす。
私はいても立ってもいられず、馬車の小窓から身を乗り出して外を眺めようとした。
「おっと。ダメですよ?お嬢さん」
「わっ」
突然、ぐいっと腕を引かれたかと思うと。
私は背中から、ふわりと柔らかい感触に包み込まれた。お姉ちゃんが私を自分の膝の上にすっぽりと乗せて、後ろから抱きすくめてきたのだ。
さらに、私の目の前にすっとお姉ちゃんの手が当てられ、視界が真っ暗に塞がれてしまった。
「囚われのあなたに、輸送経路を見られるわけにはいきませんからね」
耳元で、お姉ちゃんの嬉しそうな声が囁く。
「……お姉ちゃん。お話の海賊は、膝にヒロインを乗せるの?」
私が呆れ声で尋ねると、背中の後ろで、お姉ちゃんがそっと目を逸らした気配がした。
「……いや、その……普通は対面に座らせて、手枷とかもちゃんとした鉄のやつだし……」
「……だよね」
ボソボソと小声で言い訳をしたかと思うと、次の瞬間、お姉ちゃんは謎に強気な声を出した。
「で、でもっ!本物の冷たい鉄なんて、リゼに付けるわけにはいかないでしょ!?」
私は今日何回目かわからないため息をもう一度ついてから、リボンで軽く縛られた両手を、ちょこんと自分の膝の上に乗せた。
視界は真っ暗。両手はリボン。そして、お姉ちゃんの膝の上。傍から見たらかなり変な状況だ。
……でも、まあいいか。
私は背中から伝わるお姉ちゃんの温もりと、これから初めて見る海への期待に、大人しく甘んじてあげることにした。
お姉ちゃんの甘い香りと、窓から入り込む潮の匂い。
二つが混ざり合った、不思議だけど決して嫌いではない匂い。
その心地よい暗闇に身を委ねていると、やがてガタガタという馬車の揺れがゆっくりと収まり、完全に停止した感覚がした。
「着いたの?」
私が尋ねると、背中の後ろでお姉ちゃんがふふっと笑う気配がした。
「ええ。もう逃げられませんよ、お嬢さん」
そう言って、私の目隠しを維持したまま、お姉ちゃんが立ち上がろうとする気配がする。
私もそれに合わせて立ち上がった、のだけれど……。
「……ねえお嬢さん。馬車のドア、開けてくれない?」
後ろから、なんとも締まらないお姉ちゃんの声が降ってきた。
「……海賊の船長が、それでいいの?」
私はツッコミを入れつつ、仕方ないから開けてあげようと前に手を伸ばす。
けれど、私も両手をリボンで縛られているし、前も見えない状態だから、なかなかドアの取っ手が見つからない。
「リゼ、もうちょっと上だよ」
「このへん?」
後ろからすっかりお姉ちゃんに戻った声を頼りに、手探りで壁を撫でる。
ようやくドアらしき部分を見つけて「よし、開けるからね」と後ろのお姉ちゃんに声をかけ、ぐっと体重をかけた。
その、瞬間だった。
「二人ともー!まだですかー!?」
外からカイナの元気な声がしたかと思うと、ガチャリ、と馬車のドアが勢いよく外側から開かれた。
「えっ」
「きゃっ!?」
ドアに体重をかけていた私と、私の後ろに結構寄りかかっていたお姉ちゃんは、突然支えを失って――
そのまま二人揃って、馬車の外へと倒れ込んでしまった。
「うわっ!」
ドスッ、という鈍い音と共に、地面に落ちる。
案の定、私はお姉ちゃんの下敷きになってしまった。
「いてて……」
「ご、ごめんなさいリゼ!大丈夫!?」
慌てて私の上からどいたお姉ちゃんを待ってから、私は「大丈夫」とゆっくり顔を上げた。
そして。
目隠しが外れ、眩しい光を取り戻した私の視界に、真っ先に飛び込んできたのは。
真っ白な砂浜と。
太陽の光を反射してきらきらと輝く、見渡す限りの、広大な『青』だった。
「リゼ!本当に大丈夫!?立てる?」
そこ光景に圧倒されていた時、目の前にお姉ちゃんの白い手が差し出された。
私がその手を、リボンが解けて絡まった手で握り返すと、ぐいっ、と思い切り引き上げられたかと思うと、そのまま勢いよく、ぎゅっと強く抱きしめられていた。
「よかった、怪我はなさそう」
耳元で安心したようなお姉ちゃんの声がする。
普段の私なら「ちょっとお姉ちゃん、くっつきすぎ」とツッコミを入れるところだけど。
今の私には、そんなことすら全く気にならないくらい、目の前の景色に心を奪われていた。
お姉ちゃんの肩越しに見える、一面の青。
ザザーッ、ザザーッ、と、一定のリズムで繰り返される、大きくて心地よい水の音。
頬を撫でる風は、さっき馬車の中で嗅いだのと同じ、少ししょっぱくて不思議な匂いがした。
「ヒューヒュー!お熱いですなー、船長!」
抱き合う私たち二人を見て、横に立つカイナがからかうように笑い声を上げる。
でも、その声すらも、波の音に溶けてどこか遠くに聞こえた。
「海、……これが」
私はお姉ちゃんの腕の中で、ただ呆然とその景色を見つめたまま、それ以上の言葉が出なかった。
本で読んだ『不思議で大きな水たまり』なんて表現じゃ、全然足りない。
空と同じくらい青くて、どこまで続いているのかもわからないくらい、大きくて、深い。
こんなにも広大なものがこの世に、しかも触れることが出来る距離にあるなんて。
ずっと狭い世界しか知らなかった私には、ただただ、信じられなかったから。




