第88話 - α 身分の盾
馬車の中で、私はさっそくソフィが用意してくれた服に着替えることにした。
以前、戴冠式の時に無理やり着させられたあのヒラヒラのドレスとは違って、この服はあくまで普通の服の延長線上にある作りになっていた。
背中の面倒な編み上げや息の詰まるコルセットもなく、私一人でも迷うことなくスムーズに着ることができる。
……まあ戦闘用の服にコルセットとかあったら困るんだけどね。
あの窮屈な感じは、もう二度と着たくないかな。
最後に、一緒に用意されていた細身の革ブーツを履く。
立ち上がって、試しにその場で足を高く蹴り上げたり、腰を鋭く捻ったりして動き心地を確認してみた。
「すごい……!」
思わず声が漏れた。
見た目はフリルが重なっていてあんなにふんわりしているのに、驚くほど軽くて、足捌きを一切邪魔しない。
これなら全速力で走ることも、剣を振ることも全く問題なさそうだ。
本当に、戦うための服なんだ。
そして仕上げに、ソフィからのメッセージカードに添えられていた、青いリボンの付いた髪飾りを手に取る。
剣を振る時に長い髪が視界の邪魔にならないよう、手櫛で後ろにササッとまとめ、いつも通りの高い位置でギュッと縛ってポニーテールを作った。
鏡はないけれど、私の白い髪の中で、ソフィとお揃いの澄んだ青色が綺麗に映えているのがわかった。
「よし、準備完了!おじさん、着替えたよ!」
私が窓ガラスに映る自分の姿を見て気合を入れ直し、外に向かって声をかけると。
ガタッ、と扉が開き、おじさんが御者席から馬車の中へと滑り込んできた。
おじさんは私の頭の先からブーツのつま先までを鋭い目でスッと見定めると、ふっと満足げに口元を緩めた。
「よし。どこからどう見ても、良いところの貴族の娘に見える。十分な出来だな」
「貴族の娘?」
私が小首を傾げると、おじさんは腕を組んで深く頷いた。
「ああ。この都市でも貴族の権威は絶対だからな。貴族って身分を被るだけで、早い話、箔が付くんだ」
「なるほどー」
確かに、ただの素性が知れない小娘よりも、貴族のお嬢様として振る舞った方が、無用な面倒事に巻き込まれにくそうだ。
納得する私に、おじさんはいつになく真剣な、厳しい声色で告げた。
「いいか、よく聞け。その盟剣と、もう一つの『皇剣』は常に手放さず持っておけ。そして、俺が何かの用事で離れるときは、俺が手配してある使用人と必ず一緒に行動すること」
「うん」
「それから……もし俺がいない間に何か厄介事が起きたら、公爵の娘を名乗れ。苗字は……確か『ブライユ』だ」
「ブライユ?」
「皇女の片親の苗字で、今お前が着ているその服のボタンに刻まれている家紋の家だ。繰り返すが、ここにいる間は『リゼ・ブライユ』を名乗っておけ。アッシュクロフトの連中も、貴族という肩書きには弱いからな」
おじさんの言葉に、私は自分のジャケットのダブルボタンに視線を落とす。
言われてみれば、金色のボタンの表面には、細やかで威厳のある紋章がしっかりと刻み込まれていた。
ソフィは、ただ私を可愛く着飾るためだけにこの服を用意したんじゃない。
私が外の世界で不当な扱いを受けないように、公爵家という『盾』まで一緒に持たせてくれたんだ。
「……わかった。今からは私『リゼ・ブライユ』だね。ちゃんと覚えとく」
私が真剣な顔でしっかりと頷いた、その時だった。
――ギィィッ、と。
これまでガタガタと揺れていた馬車が、ゆっくりと速度を落として完全に停止した。
外からは、たくさんの馬車の車輪が軋む音や、兵士たちの怒声、そして都市の入り口特有のざわめきが聞こえてくる。
どうやら、門を通過するための厳重な入市検査の列に並んだらしい。
いよいよだ。
私は、おじさんと顔を見合わせ、小さく息を呑んだのだった。
私が緊張して固まっていると、おじさんはふっと、少しだけ可笑しそうに笑った。
「そんなに強張るな。俺たちは別に悪いことをしに行くわけじゃない、むしろ皇帝陛下の命で来た、偉い人になる」
そう言いながら、おじさんは馬車の床にコトリと転がっていた愛用の杖を拾い上げ、手元へと引き寄せた。
「ここの食事のことでも考えて、楽しみにでもしているんだな」
「……そうだよね」
おじさんの言葉に、私は強張っていた肩の力を抜いて、こくりと頷いた。
私たちは新しい皇帝が即位したことを伝えに来た、偉い人なんだから、堂々と入ればいいだけなんだ。
「アッシュクロフトには、どんなご飯があるのかな?」
私が興味津々に尋ねると、おじさんは手にした杖の頭を軽く撫でながら、ニヤリと口角を上げた。
「それは秘密だ。だが……お前がびっくりすることだけは請け合ってやる」
「えー、気になるなぁ」
びっくりするようなご飯って、どんなものだろう?
闘技場では見たこともないような、すごく大きなお肉とか、それともアッシュクロフトならではの変わった味付けのお魚とかだろうか。
そんな風におじさんと他愛のない話をしているうちに、私の胸の内にあった入市検査への緊張は、すっかりどこかへ飛んでいってしまっていた。
その時だった。
「――お二人とも。そろそろ我々の検査の番が回ってきますので、ご準備をお願いします」
御者席から、小窓越しに御者さんの落ち着いた声が聞こえてきた。
いよいよだ。私は居住まいを正し、おじさんと共にゆっくりと馬車の外へ出る準備を整えた。




