第87話 - α 新衣装実装
無心で剣を振り、白銀の軌跡で遠くの地平線をなぞろうとした、その時だった。
視界の先に突如として現れた巨大な建造物に、私は思わず目を見開いた。
「おじさん、城壁が見えるよ!」
私が馬車の屋根で背伸びして叫ぶと、手綱の横に座っていたおじさんも、不思議そうに首を傾げながら前方を見据えた。
「……本当だな。あれは確かにアッシュクロフトだな」
おじさんはそう呟いてから、怪訝な顔で隣の御者さんへと視線を向けた。
「おい。馬車で三日はかかるって話だったはずだが……」
すると、御者さんは前を向いたまま、事もなげに言ってのけた。
「私はプロですから。最短最速のルートを行けば、2日で着きますよ」
「なっ……」
予定より丸一日も早い、まさかの到着。
その事実に数秒ほど固まったおじさんだったが、次の瞬間、顔色を変えて大慌てで叫び出した。
「リ、リゼ! 剣の稽古はもう終わりだ! 降りてこい!」
「えっ、急にどうしたの?」
「仮にも帝国の総帥と同行者が、そんなラフな格好で都市に入るのはマズイ!これは新皇帝が誕生したことを伝える、正式な訪問だ、着替えるぞ!」
おじさんはいつも冷静な顔を完全に崩して、すっかり焦り切っていた。
「俺が先に馬車の中で着替えるから、お前は周りの連中に見られないように、一旦御者席で待ってろ!」
そう言い残すと、おじさんは慌ただしく馬車の中で着替えだしたみたいだった。
「ええーっ……」
私はポカンとしながら、大人しく盟剣を鞘に納め、言われた通りに馬車の屋根から御者席の横へと滑り降りた。
隣を見ると、御者さんが涼しい顔で手綱を握り、遠くに見える巨大な城壁に向かって一直線に馬を走らせている。
……プロってすごいんだなぁ。
私は小さく身を縮めて隠れながら、おじさんのドタバタと着替える物音を聞きつつ、これから足を踏み入れる『硝煙の都市』に思いを馳せるのだった。
しばらくして、手早く着替えを終えたおじさんが御者席へと戻ってきた。
私は御者席の横から顔を覗かせ、その姿を見て思わず目を瞬かせた。
そこにいたのは、いつもの着古した旅装のおじさんではなかった。
仕立ての良い深い紺色の軍服に、金色の飾り紐。
胸元にはいくつかの勲章が鈍く光っている。
首元まで厳格に締められたその姿は、どこからどう見ても『偉そうな、いかにも上官です』といった風格を漂わせる、立派な帝国の総帥そのものだった。
「おじさん……、なんだか全然似合わないね」
思わず素直な感想が口から出ると、おじさんは手綱を握り直しながら、はぁ……と苦々しく、でもどこか可笑しそうに喉を鳴らした。
「まったくだ。肩が凝って仕方がない。……だが、これから行くアッシュクロフトは新皇帝の誕生を伝える正式な訪問先だ。俺がこんな格好をしてるんだから、当然お前もそのままってわけにはいかない」
おじさんは顎で馬車の中を指し示す。
「お前の分の衣装は、皇女が用意してくれている。中に渡されたトランクを置いておいたから、さっさと着替えてこい」
「お姫様から?」
ソフィが私のために服を?
私は首を傾げながら、入れ替わるようにして静かになった馬車の中へと滑り込んだ。
座席の上には、上質な革で作られた小さなトランクがぽつんと置かれていた。
どんな服が入っているんだろう。少しだけドキドキしながら、真鍮の留め具をカチャリと外して、トランクの蓋をそっと押し上げる。
そこに――きれいに折りたたまれて収められていたのは。
「わあ……」
思わず、感嘆の声が漏れた。
それは、白と深い青を基調とした、驚くほど美しく、そしてカッチリとした仕立て服だった。
カッチリとした立襟のジャケットは、ダブルボタンのクラシカルな軍服を思わせるデザインで、胸元には帝国のエンブレムが刺繍され、金色の飾り紐が華やかにあしらわれている。
けれど、その下にあるスカートは――。
幾重にも重ねられたフリルとレースが、ふんわりと丸いボリュームを作り出しており、軍服のカッチリとした印象とは対照的な、驚くほど少女らしい、まるで人形のような甘いシルエットを描いていた。
そのスカートの裾からは、上質な白のレースが贅沢に覗いている。
美しいけれど、ただの飾りじゃない。生地には防刃の刺繍が施されているようで、美しいだけでなく、実戦にも耐えうる一級品の『戦闘旅装』だった。
衣装のすぐ上には、ソフィの丁寧な筆跡で書かれた小さなカードが添えられている。
『お姉様へ。総帥の同行者として、そして私の誇り高き騎士として、一番似合うものを選びました。アッシュクロフトは少し風が強いと聞きます。どうか、暖かくして過ごしてくださいね』
カードの横には、ソフィの瞳と同じ、綺麗な澄んだ青色のリボンがあしらわれた髪飾りが一つ、ちょこんと乗っていた。
あの大人しくて、いつも守られていたお姫様が、私のためにこれほど細やかな気遣いをしてくれていたなんて。
胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、私はその美しい服をトランクから丁寧に引っ張り出した。
「よーし、あたしも着替えるぞー!」
おじさんに負けないくらい立派に、そしてソフィの期待に応えられるように。
私は新しい衣装に袖を通すべく、少しだけ弾む心で身支度を始めるのだった。




