第86話 - α ルーツ
心地よい馬車の揺れの中で目を覚ます。
「……ふぁ、おはよー」
寝ぼけ眼のまま呟くと、対面の席から「ああ」と、おじさんの短く低い声が返ってきた。
私はごしごしと目をこすって、馬車の小窓から外を覗き込む。
見上げると、そこにはすでに真上まで昇りきった太陽が眩しく輝いていた。どうやら、もうすっかりお昼になっているらしい。
……うわぁ、本当にこんな時間までぐっすり寝ちゃってたんだ……。
昨夜のおじさんの「安らかに寝ていてほしい」という言葉通り、朝の喧騒にも全く気づかず爆睡していた自分に、少しだけ照れくさくなってしまう。
そんな事を考えていたら、いつの間にかおじさんが御者の席に移動してた。
……私の着替えに気を使ってくれたんだろうな、嬉しいけど、私は気にしないのに。
私が身支度を整えて顔を出すと、おじさんが「ほれ」と無造作に朝食……いや、昼食を差し出してきた。
それは、シンプルなパンと、小さな壺に入ったクリーム、そして水だった。
「ありがとう」
私はそれを受け取り、パンにたっぷりとクリームを塗りながら、ふと口元を緩めた。
「なんかさ。昔……っていうほど昔じゃないけど。こうしてパンにクリームを見ると、あたしのはじまりを思い出すなぁ」
あの地下の冷たい牢獄で、おじさんと一緒に食べた、クリーム付きのパン。
あれが、私の世界の一歩目だった。
「こんなに遠いところまで来れるなんて、あの時は思わなかったなぁ」
しみじみと呟きながらパンをかじると、甘いクリームの味が口いっぱいに広がった。
すると、手綱の横に座っていたおじさんが「ふん」と短く鼻を鳴らした。
「……それはこっちのセリフだ、小娘」
呆れたような、それでいてどこか愉快そうなぼやき声が聞こえてくる。
「俺を焚きつけて脱獄までさせやがって。気づけばあれよあれよと、反乱軍の『総帥』だ。……全く、とんでもない貧乏くじを引かされたもんだ」
おじさんのそのボヤキに、私は思わず「えへへ」と声を上げて笑ってしまった。
本当に、あの時はこんな風に、馬車に揺られて旅をするなんて、想像もしていなかった。
私はいろんなものを失って、たくさん傷ついてここに流れ着いたみたいだけど。
パンとクリームの甘い味は、あの牢獄の日からずっと変わらずに、私たちを繋いでくれている気がした。
パンを最後の一口までパクリと平らげると、満たされた身体の奥底から、ふつふつと剣を振りたいという衝動が湧き上がってきた。
「ごちそうさま!……ねえ、おじさん。私、馬車の上に乗りたいな。手を貸して?」
私が後ろから声をかけると、おじさんは御者席から滑り込むように馬車の中に入ってくると耳寄り情報を教えてくれる。
「俺の手なんか借りなくても、そこの御者席の横から簡単に登れるぞ」
「そっか、わかった!」
私は腰に『盟剣アリィス』をしっかりと下げたまま、身軽な動作で御者席の横に足をかけ、ひょいっと馬車の屋根の上へとよじ登った。
屋根の上に立つと、進行方向からの風が心地よく全身を吹き抜けていく。
馬車は舗装されていない森の道を進んでいる、足元はガタガタと絶えず不規則な振動を続けている。
私は小さく深呼吸をして、馬車の揺れに耐えながら、ゆっくりと盟剣を引き抜いた。
まずは、体に染み付いている基礎の型を一つ一つ、ゆっくりとなぞっていく。
そして今度は、記憶の中にある洗練された動き――かつて学んだ『宮廷剣術』の型もなぞることにした。
ザッ、と屋根の上で足を踏み込み、白銀の刃を振るう。
ガタガタと揺れる、ひどく不安定な足場。
それなのに、私の身体は不思議なほど全くブレることなく、どこまでも滑らかに、そして正確に剣の型をなぞることができていた。
まるで、剣そのものが私の重心を支え、正しい姿勢へと導いてくれているかのようだ。
手の中にあるこの剣から伝わってくる、確かな重みと、吸い付くように馴染む感覚。
……この剣はきっと、私の最初のルーツなのだろう。
私は、風を切り裂く盟剣の澄んだ音を聞きながら、理屈ではなく直感でそう確信していた。
闘技場で身につけた殺しの技術でもなく、四季刀流でもない。もっとずっと昔、私が初めて剣を握りたいと願った、あの日。
私の始まりの記憶が、この剣には確かに宿っている気がした。




