第80話 - β Trace of a Dream Log 7
どれくらいの時間が経っただろうか。
すっかり夜の帳が下りた頃、上流の湖の方から、ぽつり、ぽつりと淡い光が流れ込んできた。
それは瞬く間に数を増し、川幅いっぱいに広がっていく。
赤、青、黄色、緑……色とりどりの魔力を帯びた光が、人々の切なる願いを乗せて、緩やかな川面を滑っていく。
無数の光り輝く木船が川を埋め尽くすその光景は、まるで夜空から零れ落ちた『天の川』のようだった。
「すごい……」
隣で、リゼが感嘆の息を呑むのが聞こえた。
私はそっと、あの子の横顔を盗み見た。
幼い頃、光らない木船を抱えて絶望していたあの子の瞳には今、美しい天の川の光がキラキラと反射している。
あの日と同じ光景を見ているはずなのに、リゼの顔に惨めな影は一つもなかった。
「……この願いは全部、リゼ、あなたが守ったものなんだよ」
私は、心からの誇らしさを込めて、あの子の横顔に優しく語りかけた。
――本当は、他人の願いなんてどうでもよかった。
この川を流れるすべての光よりも、リゼの瞳に宿るその輝きの方が、私にとってはよほど価値がある。
魔力を持たないと蔑まれた私の大切な妹が、あの重い剣を振るい、身を呈してまで守り抜いた景色だからこそ、私はこの光を美しいと思うのだ。
「この綺麗な願いを、私が……」
目の前を流れていく無数の光を見つめながら、リゼは不思議そうに呟き、やがてその言葉の意味を噛み締めるように柔らかく微笑んだ。
その直後。
「……お姉ちゃん、今日はありがとう」
こてん、と。
リゼが私の膝へと、そっと無防備に頭を預けてきたのだ。
えっ……!?
突然のあの子からの甘えに、私の心臓は爆発しそうなほど大きく跳ね上がった。
ああ……駄目だ。こんな風に無防備にすり寄られたら。
今すぐこの子を腕の中に閉じ込めて、誰も知らない部屋の奥深くに隠してしまいたくなる。
もう二度と、冷たい外の世界になんて行かせたくない。
ずっと安全に、幸せに生きられるよう、その手足ごとすべてを私の愛で縛り付けてしまいたい。
……でもそれではだめなんだ、リゼはきっとそれを望まないから。
自由に歩き回って、困った人を必死で助けて、それがきっとこの子の幸せなのだろうから。
私は胸の奥で暴れ狂う昏い独占欲を必死に押さえ込み、聖女としての完璧な微笑みを貼り付けて、少し震える手を伸ばした。
そして、壊れ物を扱うように、柔らかな髪を優しく撫で始めた。
「お姉ちゃんのおかげで……少しだけ、自分のことを誇れるようになれたかもしれない」
私の撫でる手に目を細めながら、リゼはもう一言付け足した。
「あと、あの演技もね」
「ふふっ。あれは、私がやりたくてやっただけだから」
図星を突かれて、私は照れ隠しのようにクスッと笑った。
リゼが笑ってくれるなら、私は王子様でも、道化でも、あるいは世界を焼き尽くす魔女にだって喜んでなるというのに。
けれど、リゼの温かい体温を膝に感じていると、不思議と素直な言葉が口をついて出た。
「でも……そうかも。少しでも、リゼの気が晴れてくれればいいなって、思ってたかも」
私が本音をこぼすと、リゼは少し困ったように笑った。
「……そっか。優しさって、自分から渡すのは心地よいけど、相手から素直に受け取るのは……結構難しいね」
あの子らしい、不器用で真っ直ぐな言葉。
私は、リゼの額にかかった前髪を優しく払いながら、静かに微笑んだ。
「それが、人と人とが好きでいられる理由なのかもしれないわね」
「……そうだね」
お互いに気を使って、優しさを渡し合って。その不器用なやり取りのすべてが、相手を大切に想っている証拠なのだ。
「ねえ、お姉ちゃん」
「なあに?」
膝枕をしたまま、無垢な瞳でリゼが私を見上げて尋ねてきた。
「お話の王子様は、このあとヒロインをどうするの?」
「……っ」
その質問に、私は一瞬パチクリと目を瞬かせ、息を呑んだ。
お父様の書斎にあったロマンス小説。
あの物語の王子様は、夜の終わりに、愛するヒロインを強く抱きしめ、息もできないほど情熱的な口づけを交わすのだ。
それを思い出し、私の頬は夜の闇の中でも分かるくらい、カッと熱く染まってしまった。
もしも、私の中の『本当の感情』に従うのなら。
私は今すぐこの子を組み敷いて、その唇を塞ぎ、私の愛の重さでこの子を完全に溶かしてしまいたい。
けれど……、駄目だ。
私は妹を愛する『完璧な姉』で、この愛おしい『ヒロイン』を守る『優しい王子様』でいなければならないから。
「それはね……」
私は暴走しそうな愛をギリギリで鎖に繋ぎ、リゼの顔にそっと自分の顔を近づけ、わざと甘い声で一言だけ囁いた。
「……秘密、だよ」
チュッ、と。
私は、あの子の額に、ドロドロに溶けた執着を『純愛』のオブラートで包み込んで、柔らかく口づけた。
流れる天の川の光と、遠くで響くお祭りの音。
顔を真っ赤にして静かに目を閉じた妹の寝顔を眺めながら、私は今夜、この世界で一番幸せな王子様になれたことを星空に感謝した。
――だから、星よ。
もしも、私の腕の中からこの子を奪おうとする理不尽な運命があるのなら。
私は神に背いてでも、この手で世界のすべてを終わらせてみせる。
誰にも聞こえない狂気めいた誓いを、私は愛する妹の寝顔を見つめながら、静かに、深く刻み込んだのだった。




