第79話 - β Trace of a Dream Log 6
「マナ……イーター!?」
泥のような水飛沫の中から姿を現したその醜悪な姿に、私は強烈な嫌悪と共に息を呑んだ。
聖国に、こんな魔物がいるはずがない。
魔力を喰らい、糧とする存在。
かつてこの国において『天敵』とまで呼ばれ、騎士団の掃討作戦によって徹底的に排除されたはずの害獣。
それが今、私とリゼの、この尊い時間を泥足で踏みにじろうと目の前に立っている。
「お姉ちゃん!」
リゼが鋭く叫んだ。
あの子の背中から、言葉にならないほどの強い決意と焦りが伝わってくる。
――分かっているわ、リゼ。コイツを、絶対に生かして返すわけにはいかない。
間もなく夜になれば、星降り祭のメインイベントが始まる。
人々の願いが込められた光る木船が、上流の湖からこの川へ大量になだれ込んでくるのだ。
そんな状況でこの魔物を野放しにすれば、あの木船たちは、マナイーターにとって最高の『ご馳走』になってしまう。
あの子は、自分がかつて手に入れられなかった『光』を、人々の切なる願いを、絶対に守り抜くつもりなのだ。
私は無言のまま片手を前に突き出し、空中に無数の鋭い氷の刃を顕現させると、汚らわしい害獣へ向けて一斉に射出した。
風を裂いて飛ぶ氷刃が、魔物の頭部や胴体に激突し、その注意を強烈に惹きつける。
「ふぅ……ッ!」
私の牽制の隙を縫うように、リゼが動いた。
けれど、私はその動きに息を呑んだ。
あの子は踏み込みながら、私の氷を纏った冷たい直剣を……なぜか、そこにはない鞘へと納めるような動きをしていたから。
どうして? 敵は目の前にいるのに、どうして今、剣をしまってしまうの!?
私が混乱で目を丸くした直後。
魔獣の懐へと潜り込んだリゼは、渾身の踏み込みと共に、見えないほどの速度で剣を横薙ぎに一閃した。
――美しく、鋭い神速の太刀筋。
だが、魔獣の生存本能か、マナイーターは奇妙な挙動で真横へと跳躍し、刃はその分厚い外皮を浅く切り裂くにとどまった。
焦るリゼの背中が見えた。
無理もない。あの子の持つ鉄剣は、私が勝手に氷の魔法を纏わせたせいで、普段とは重心も重量も全く変わってしまっているのだ。
私のせいで、あの子を危険に晒してしまった。
……許さない。私の妹を脅かす、この醜い肉塊を。
あの子はすぐにステップを踏み、次へと繋げようとしている。
綺麗で攻撃的な剣、きっとそれが、魔法と並ぶほどの剣に到達するためのものなのだろう。
それなら、私が絶対に当たる死の舞台を作ってあげるだけ。
「リゼッ!」
私は、ありったけの信頼と殺意を込めて妹の名を叫んだ。
その声を聞いた瞬間、リゼはステップによる回避行動を一切やめ、マナイーターの正面へ向かって一直線に突っ込んでいった。
一切の迷いがない、私への絶対の信頼。
リゼを仕留めようと、マナイーターが禍々しい魔力を纏った爪を振り下ろす。
私はあの子の頭上に、分厚い『氷の盾』を創造した。
ガギィィィンッ!!
凶悪な一撃を完全に弾き落とす。私の妹に、指一本触れさせはしない。
迎撃を阻まれた魔獣が、慌てて横へ逃れようと体勢を崩した。
逃がすものか。永遠の氷地獄に閉じ込めてやる。
私は、マナイーターが逃げようとした左右、そして頭上の逃走ルートを完全に塞ぐように、巨大な氷の壁を一瞬にして創造した。
「――ッ!?」
退路を断たれ、氷の壁に激突して体勢を崩すマナイーター。
完璧な死地。そこへ、剣を深く構えた私の自慢の妹が、全身のバネを解放して飛び込んだ。
極寒の冷気を纏い、下から上へと振り抜かれる刀身。
それはまるで、夜空に浮かぶ星と星を繋ぎ合わせるような……どこまでも美しく、透明な光の軌跡だった。
その神聖な星の軌跡が、マナイーターの巨体をいとも容易く縦に両断する。
醜い怪物はパツンと弾け、濃密な魔力の霧となって夜風の中に完全に消滅していった。
リゼは斬り上げた剣を横に払い、ふぅっと細く息を吐き出して残心をとった。
それから、ゆっくりと剣を納めようとして……自分の腰のあたりを手で探り、ピタリと動きを止めた。
ふふっ……鞘は、私が持っているのに。
鞘ごとベルトを私が預かっていたことを忘れているのだろう。
少しだけ間抜けな行動をして固まっている妹が、どうしようもなく愛おしくて。
私は静かに歩み寄ると、戦闘の緊張でギュッと力が入ったままだったあの子の手から、そっと指をほぐすようにして、重たい剣を受け取った。
「今日を楽しむための、心のつかえはとれた?」
努めて深く、優しい声をかける。
リゼは私に隠していたつもりだっただろうけれど。
私が、あの子の行動のすべてから目を離すはずがない。
私がいない所で、一人で抱え込んでいたその重荷。それを今、二人で一緒に斬り払うことができて、私は心底ホッとしていた。
私の言葉に、リゼは完全に剣を委ねて、ふっと体の力を抜いてくれた。
「……うん。これで今日は、お姉ちゃんと向き合える」
そのまま、あの子は川岸の柔らかな草の上へと静かに腰を下ろす。
気負いのない、安心しきった横顔。ああ、ようやく、あの子の本当の顔が見られた。
「……気づいてたの?」
リゼがぽつりと尋ねてくる。
私は重たい剣を傍らに置き、あの子のすぐ隣へと腰を下ろした。
「ふふっ。お姉ちゃんですから」
世界で一番、あなただけを見ているのだから。
私は誇らしく、そしてこの上なく愛おしい気持ちでそう答えた。
「……そっか」
リゼは小さく呟いて、自分の膝を抱えた。
「こんな相手と戦うことになるとは思わなかったけどね」
私が楽しそうにそう言うと、リゼも苦笑いしながら頷いた。
「……それは、それは私もそう思うよ……」
その後は、お互いに言葉を交わさなかった。
けれど、それは決して気まずいものではなく、どこまでも穏やかで、温かくて、心地よい沈黙だった。
遠くから微かに聞こえ始めた祭りの囃子と、私たちの足元を流れる静かな川のせせらぎ。
私たちは、ただの姉妹として、戦いの熱を優しく冷ましてくれるその静寂に、ただ静かに身を委ねていたのだった。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございます。
ストックでの放出は一旦ここまでとなります。
まだまだ長い道のりとなる本作ですが、もしよろしければ【ブックマーク】や、画面下の星マーク【☆☆☆☆☆】で応援していただけませんか?
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R・D




