第77話 - β Trace of a Dream Log 4
酒場の重い木の扉を開けると、香ばしい肉の焼ける匂いと、常連客たちらしき人々の賑やかな喧騒が私たちを包み込んだ。
「こんにちは、店主さん」
私が店内の騒々しさに少し圧倒されていると、隣にいるリゼが、とても慣れた様子でカウンターの奥に声をかけた。
「おお、今日は2人か。テーブルにするか?」
「うん、お願い」
「あいよ、2名テーブルだ!」
店主さんはグラスを拭きながら、案内というにはあまりにも雑な大声でフロアに向かって叫んだ。
普段、私がいる皇宮や貴族街の洗練された接客とは真逆の空気。
けれど私は、その雑な扱いにホッと胸を撫で下ろすと同時に、目頭が熱くなるのを感じた。
誰も私のことを詮索しないし、何より、誰もリゼを蔑むような目で見ない。
ただの「客」として、平等に雑に扱ってくれる。
イレイナの家が与えられなかった『普通の居場所』を、この街の人たちはリゼに与えてくれていたのだ。
「えっと……ここでいいの?」
私が空いている席を指さして聞くと、店主さんは顎をしゃくって答えた。
「ああ。ウェイターに案内させてるんだが、さっき叫んだのに出てこねえな。さては裏でサボってるな?あいつ。……姉ちゃんたち、適当に座っててくれ」
そう言い残し、店主さんはズカズカと足早に店の裏へと引っ込んでいってしまった。
私は、向かいの席ではなく、リゼのすぐ隣の席へとスルリと腰を下ろした。
「……ここ、居心地いいね」
肩が触れそうな距離で、私は店内を見渡しながら心からの本音をこぼした。
「詮索されない……。聖女でも何でもない、ただの『誰でもない自分』として振る舞えるって、とても素敵だと思うな」
私の言葉に、リゼも少しだけ嬉しそうに頷いてくれた。
「お姉ちゃん。対面に座らなくていいの?……ここ、二人並んで座ると結構狭いんだけど」
リゼが少し身をよじって聞いてくる。私はたまらず、ギュッとリゼの腕にすり寄った。
「隣がいいの。王子様は串焼きをヒロインと並んで食べてたから、隣っていうのがだいじなんだよ、きっと」
私はお父様のロマンス小説の知識を盾にして答える。
……本当は、ただ少しでも長く、この子の体温を感じていたかっただけだ。
私が離れていた間に、あの子がどれだけ冷たい夜を過ごしたのかと思うと、片時も離れたくなかった。
「……その設定、まだ生きてたんだね」
リゼの呆れ半分、感心半分のツッコミが心地いい。
その時だった。
「さっさと水出してこいッ!!」
店の裏から、店主さんの凄まじい怒鳴り声がドカンと響き渡った。
私はびくっと肩を揺らし、思わずリゼの耳元に顔を寄せて小声で呟いた。
「……働くのは大変そうだけどね」
「……同意見だよ」
私たちは顔を見合わせ、二人でこっそりと同情し合った。
しばらくして、少し肩を落としたウェイターさんがお水を出してくれた。
「ありがとう。ステーキを二つ、お願い」
リゼはメニューを開くこともなく、手慣れた様子で即座に注文した。
「あいよ!ステーキ二丁!」
「あいよ、ステーキ二丁!かしこやり!」
ウェイターさんと店主さんの、怒涛のやり取りとテンポの速さ。
私は思わず目を丸くして、隣のリゼを見た。
「……注文、これで終わりなの?」
「そうだよ。いつも私が食べてるものを頼んだから、楽しみに待っていて」
自信満々にそう答えるリゼの顔を見て、私はホッとして「ふふっ」と微笑んだ。
すると、お水を出したウェイターさんが、なぜか私たちのテーブルの脇に居座り、口を尖らせて愚痴をこぼし始めた。
「リゼさん、聞いてくださいよー。俺、少し休んでただけなのに店長が『サボるな』ってめっちゃ怒るんすよー。理不尽じゃないっすか?」
……ずいぶんと気安く、私の大切な妹の名前を呼ぶのね。
リゼの日常に、私の知らない人間がこんなにも入り込んで、親しげにしている。
私がいない間に、この人たちがリゼを支えてくれていたのだと、頭ではわかっている。感謝しなければいけない。
……それでも、リゼの隣に私が居られなかったという事実に、胸の奥がチクリと痛む。
少しだけ、嫉妬してしまいそうだった。
リゼも小さくため息をついてから、同情の余地など一切ない冷たい視線を向けた。
「サボってるあなたが悪いと思います」
「ええっ、リゼさん冷たい!」
あの子のバッサリとした切り捨て方に、私は内心で少しだけ溜飲を下げる。
そうだ。他の男になんて、優しさを向けなくていい。
私も少し困ったような、でも真面目な顔を作って口を開いた。
「あの……お仕事中のサボりは、ちょっとだめじゃないですか?」
……ほんの少しの独占欲を、完璧な聖女の微笑みで隠しながら。
「うぐっ……綺麗なお姉さんに真顔で正論言われるとキツいっす……」
ウェイターさんがたじろいだその時。
「おい! 油売ってる暇があったらこっち手伝えッ! 今日は星降り祭だぞ、夜に備えて仕込みを終わらせるぞ!」
奥から店主さんの雷のような怒声が再び響き渡った。
「は、はいッ!」
ウェイターさんはビクッと背筋を伸ばし、シャキッとした大声で返事をした。
「……じゃあ、そういうコトで」
そう言うと、ウェイターさんは逃げるようにしてそそくさと店の裏へと引っ込んでいった。
私は、リゼの横顔だけを見つめながら、クスリと笑った。
本当に、賑やかでいいお店。……私以外の人たちと笑い合うあの子を見るのは、少しだけ寂しいけれど。
「はいよー!ステーキお待ち!」
店主さんの威勢のいい声と共に、ジュージューと暴力的な音を立てて、分厚いお肉が乗った鉄板が二つ、私たちのテーブルに置かれた。
「わぁ……」
立ち上る湯気と香ばしい匂い。私は目を丸くして鉄板を見つめた後、小さくクスッと笑った。
「ふふっ。意外と普通なのね」
「……お姉ちゃん、一体何を想像していたのかわからないけど。普通のステーキだよ。私が訓練終わりに、いつもここでよく食べるんだ。ここはお肉も分厚くて、私の力のみなもとだから」
私の力のみなもと。
その誇らしげな言葉が、私の胸を鋭く突き刺した。
こんな血の滴るような肉を喰らい、あの重い鉄の剣を振るわなければ生きられない場所へ、私はこの子を追いやってしまった。
けれど、リゼはそれを嫌がっていない。自分の力で手に入れたこの生活を、誇りに思っている。
……なら、私はそれを笑って受け入れなければ。
「そうなのね。ふふ、美味しそう」
私はそれを尊重するように、込み上げる自責の念を無理やり飲み込み、フォークとナイフを持ってニコリと微笑む。
「「いただきます」」
声を合わせて挨拶をし、私は小さく切ったお肉を口へと運んだ。
「……んっ、美味しい!」
ガツンとくる濃い味付けが、口の中に広がる。
……ああ、美味しい。
これが、リゼが私から離れて、一人で生き抜いてきた味。
私はパァッと顔を輝かせ、隣でステーキを頬張るリゼの横顔を、切なさと、どうしようもない愛おしさで見つめ続けていた。




