第75話 - β Trace of a Dream Log 2
カラン、と。
リゼが逃げるように飛び出していった直後。静まり返っていたカフェの店内に、下劣な嘲笑が響き渡った。
『いい気味だ』
『あんな忌み子、聖女様の隣にいる資格なんてないんだから』
その言葉の一つ一つが、私の心を刃のように切り裂いていく。
今すぐ、このふざけた連中の口を魔法で永遠に凍りつかせてやりたい。
どす黒い怒りが腹の底から湧き上がってくるのを感じた。
――けれど。
私は、拳をきつく握りしめ、その衝動を必死に抑え込んだ。
力でねじ伏せても、何も変わらない。
私が魔法の力で恐怖を植え付ければ、結局あの子が嫌いな、力だけがすべての冷たい世界を肯定することになってしまう。
私は、魔法の力に頼るのではなく、私自身の言葉で……嫌なことは、嫌だとはっきりと伝えようと決めた。
私はゆっくりと立ち上がり、嘲笑を浮かべる貴族たちを静かに、けれど強い意志を持って見据えた。
「あの……リゼは、私の大切な妹なんです」
店内の空気が、ピタリと凍りつく。
「あなた達は……自分の大切な家族を侮蔑されたら、どんな気持ちになりますか……!?」
震えるような、けれど確かな怒りを込めた声が、店内に響き渡る。
「……よく、考えてみてください」
それだけ言い捨てると、私は懐から金貨を取り出した。
怒りに任せてテーブルに投げつけたい衝動をグッと我慢し、コトン、と静かに置いて、踵を返す。
こんな連中を相手にして、無駄な時間を使っている場合じゃない。
今は一秒でも早く、リゼを追いかけないと……。
店を飛び出し、周囲を見渡す。あの子の姿はもうどこにもない。
「くっ……!」
このままでは、またリゼが遠くに行っちゃう、そんな嫌な確信がある。
……落ち着いて、私。まだ……、まだ間に合う、私には心当たりがあるのだから。
昔から、リゼは今日みたいな嫌なことがあったり、耐えきれなくなって泣きそうになった時は、決まって『鉄を叩く音』のする場所へ向かっていた。
熱い鉄の熱気と、力強い槌の音が、魔法を持たないあの子の心を落ち着かせてくれるみたいだった。
「……職人街の、鍛冶場……!」
一縷の望みをかけて。
私は聖女としての体裁も、ドレスが汚れることも気にせず、職人街へと全力で走り出す。
肺が焼けるように熱い。ドレスの裾が擦り切れ、息は絶え絶えだったけれど、私は足を止めることなんてできなかった。
職人街の裏手、階段をかけ上がり、私は鍛冶屋の屋上へと駆け出した。
……いた。
屋上の真ん中に、あの子がいた。
大の字になって、静かに空を見上げている。
その背中を見つけた瞬間、張り詰めていた糸がふわりと緩むのを感じた。
「はぁっ、はぁっ……っ、……居てくれた……!」
私は、喉元までせり上がる安堵の声を必死に飲み込み、手すりに手をついて大きく深呼吸を繰り返した。
落ち着け私、今の私の顔はきっとひどいものだ。
そんな顔でリゼに会ったら、またあの子に気を使わせてしまう。
私は数秒間、何度も肺に空気を送り込み、できる限り穏やかな笑みを浮かべるための準備をした。
お父様の書斎で、リゼが居なくなってからの数週間。
私は毎晩のように大量のロマンス小説を読み、読み、読み返した。
リゼを失った私は、絶望のあまりほかの物語に縋ろうとしたのだ、我ながら最低だ、けど――
そこには、愛する人を笑顔にするための、完璧な王子様のセリフが詰まっていた。
……こうすれば、きっとリゼは笑ってくれるはず。
私に弱々しく謝罪するより先に、よく天然って言われてる私にツッコミを入れてくれるはずだ。
そうすれば、あの子の肩に乗っている重い荷物が、少しだけ軽くなる。
――大丈夫。今の私は、聖女でも姉でもない。
リゼを笑わせるためだけにやってきた、ただの王子様だ。
私は静かに歩み寄り、逆光の中に立つ。
「――そこの可愛い娘さん。今日お暇なら、私とデートしませんか?」
……少しだけ声が震えてしまったかもしれない。
けれど、私の懸命な芝居は、そこに横たわる妹の背中に確かに届いた。
「えっ……?」
リゼがパチリと目を開け、視線を私へと向ける。
私は逆光の青空を背にして、いつも通りの完璧な聖女としての微笑みを浮かべてみせた。泣きそうな顔なんて、絶対に見せない。
「……お姉ちゃん、なんで?」
呆然と呟くリゼに、私はさらに踏み込んで、どこかの舞台役者のように芝居がかった手つきで手を差し伸べた。
「さあ、でかけましょう! この世界の全てを知りに!」
私の中で精一杯の王子様だった。
すると、リゼはさっきまでの怯えたような表情を少しだけ緩め、呆れたような目を私に向けた。
「……お姉ちゃん、ナンパする時は、もう少し現実的な話をするんだよ?」
そのいつも通りで、けれど久しぶりに聞く、手なれたツッコミ。
ああ、よかった。私の不格好な芝居は、ちゃんとあの子の心を現実に引き戻してくれた。
「そうなんだ?ナンパってしたことないから、お父様の書斎にあったロマンチックな物語みたいにしてみたんだけど……違ったのかな?」
私は小首を傾げながら、そのまま差し伸べた手をリゼへと近づける。
リゼは少しだけ躊躇ってから……その震える手で、私の白く細い手をそっと握り返してくれた。
この子の手は、驚くほど冷たかった。
「……お話はお話でしょ?あと、お母様にはその本、内緒にしておかないとダメだよ?お父様、そういうロマンチックな小説は隠れて買ってるんだから」
そんなことを言いながら、あの子は真剣な顔をしている。
こんな時でさえ、リゼはお父様のこと、家族の平穏のことを考えて、必死に気を回しているのだ。
その不器用すぎる優しさが、どうしようもなく愛おしくて、少しだけ悲しかった。
「ふふっ。大丈夫、お母様はとっくに知っていたから」
私は、リゼの冷たい手をギュッと握り、あの子を引っ張り起こしながら軽く言った。
お母様も知っているし、リゼが気にすることを減らしてあげないと。
「えっ、そうなの?じゃあ……お父様には、お母様が知ってるってこと言っちゃだめだよ。お父様は隠してるつもりなんだから」
立ち上がったリゼは、私の手にギュッと力を込めてきた。
「お父様にお母様が知ってることがバレなければ、表面上は安全なんだから……」
必死に家族の秘密を守ろうとするあの子の手の震えと、言葉の裏にある「もう迷惑をかけたくない」という悲痛な気遣い。……逆効果だったのかな。
それが、私の胸を鋭く締め付けた。
……もういいのよ、リゼ。
あなたはもう、そんな風に無理をして、家族に気を遣わなくていい。
私たちはただ、あなたを愛したいだけなんだから。
私は、あの子が握り返してくれた手を優しく引き寄せ、そのままリゼの身体を力いっぱい、けれど壊れないようにふわりと抱きしめた。
「……お父様、リゼに気を使われるのは好きじゃないみたいよ」
耳元で、できるだけ優しい声を絞り出す。
「どっちかっていうと……リゼに、気を使ってあげたい方だから」
「あっ……」
私の腕の中で、リゼの身体からスッと力が抜けるのがわかった。
強張っていたあの子の心の鎧が、ようやく解けた瞬間だった。
「……うん」
リゼは私の背中に腕を回し、これまでずっと押し殺していたものを解き放つように、私の胸に顔を埋めてポロポロと涙をこぼし始めた。
「……そうだね、みんな、やさしいからっ……」
子供のように泣きじゃくるあの子の声を聴きながら、私はただ優しく、その背中を撫で続けた。
もう二度と、この手を離さない。
この優しい妹に、二度と冷たい世界を歩かせたりはしない。
私は鍛冶屋の屋上で、ただあの子の温もりを感じながら、静かにそう誓ったはずだった。




