第74話 - β Trace of a Dream Log 1
私は、この日をずっと待ち侘びていた。
リゼが何も言わずに家を出てから、今日でちょうど79日目の朝。
私は、貴族街にある待ち合わせのカフェに、約束の時間の二時間も前から一人で座って、その時を待っていた。
最初、リゼがいなくなったと知ったあの日は、本当に生きた心地がしなかった。
心配で、心配で。お父様もお母様も、私も、身分も忘れて何日も街中を狂ったように探し回った。
それでも全く見つからなくて、絶望に押し潰されそうになっていた時、モルド兵士長に保護されたと聞いたときは、安心してその場にへたり込み、子供のように泣き崩れてしまった。
リゼの無事が確認された後、私たちは家族で深く話し合った。
なぜ、あの子は家を出てしまったのか。私たちの何が悪かったのか。
……本当は、理由なんてお父様もお母様も、そして私も、最初から分かっていたのだ。
私たちは、リゼが外で受けている侮蔑、侮辱に対して、真っ向から戦うことをしなかった。
『外の言うことなんて気にしなくていい』と、ただ家の中に安全な場所を渡し、あの子を囲い込んでいただけだった。
リゼは、優しすぎる子だ。
自分が魔法を使えないことで、私たちイレイナの家名に泥を塗っていることを誰よりも気にして、傷ついていた。
私たちが過保護にすればするほど、あの子の肩身は狭くなり、結果的に家出させるまでに追い詰めてしまっていたんだ。
そんなふがいない家族、愛想を尽かされて当然だ。
私たちは、もうリゼに捨てられたのだと、後悔と絶望の中で諦めかけていた。
――なのに。
ある日、モルド兵士長が直接イレイナ邸を訪ねてきて、私たちに信じられない報告をもたらした。
『リゼが、聖国の騎士団に、剣術トップの成績で入団した』と。
そして、『リゼがそれを家族に話したいと言っているから、引き合わせてやれないか』と。
驚いた。本当に驚いた。
魔法がすべてとされるこの聖国で、魔法の使えないリゼが、騎士団に入団を果たす、普通ならありえない快挙だ。
剣を魔法と並ぶほどに研ぎ澄ませるなんて、どれほどの血の滲むような努力が必要なのか、想像するだけで胸が締め付けられた。
そして何より、あの子から私たちに「会いたい」と言ってくれたことが、信じられないくらい嬉しかった。
……けれど、同時に私は理解していた。
私たちがリゼを傷つけてきた罪は消えない。
立派な騎士として自立したあの子が、わざわざ私たちを呼び出した理由。
それはきっと、「もうイレイナ家のお荷物じゃない。だから、もう家族の縁を切ってほしい」という、『最後通告』をするためなのだろうと。
――カラン、と。
カフェの扉が開く軽やかなベルの音が鳴る。
ハッとして顔を上げると、そこには、私の大好きな妹の姿があった。
私は、リゼからどんな拒絶の言葉を突きつけられても、決して泣かずに、あの子の立派な門出を祝福して受け入れよう。
そう、悲壮な覚悟を決めて、私は目の前に現れた妹の名前を呼んだのだった。
――けれど。
そこに立っていたのは、私に最後通告を突きつけに来た、自信に満ち溢れた立派な騎士ではなかった。
私の目に映ったのは周囲の視線に怯え、まるで迷子のように肩をすくませている。あの頃のままの、か弱くて不器用な私の妹だったのだ。
腰に立派な剣を提げていても、震えそうになる手を必死に隠すように柄を握りしめているのが痛いほどに伝わってくる。
あの子は、自分がここにいることが場違いだと言わんばかりに俯きながら、遠慮がちに私の席へと近づいてきた。
そして、ふと顔を上げたリゼと、バッチリ目が合った。
「……リゼ!」
その瞬間。
私が何日も、何日もかけて心の中に積み上げてきた、最後通告を受け入れる覚悟も、聖女としての毅然とした振る舞いも、すべてが跡形もなく吹き飛んでしまった。
私は手に持っていたコーヒーカップをソーサーにガチャンと叩きつけるように置くと、無我夢中で席を飛び出していた。
「お姉ちゃ……」
「馬鹿っ……。勝手に家を飛び出して……っ、どれだけ、どれだけ心配したと思ってるのよ……っ!」
気づけば私は、あの子の華奢な体を力いっぱい抱きしめ、子供のように声を震わせて泣きじゃくっていた。
生きていてくれた。私のもとに、帰ってきてくれた。
ただそれだけで、どうしようもなく嬉しくて、胸が張り裂けそうだった。
「あ、あの……。その……ごめん、ね……お姉ちゃん」
私の胸の中で、リゼが戸惑ったようにポツリと謝罪の言葉をこぼす。
あの子から拒絶されなかったことに心底安堵しながら、私は涙を拭って優しく微笑んだ。
「さあ、座って、リゼ。積もる話がいっぱいあるわ」
私は、この子を安心させるように、ごく自然な動作でリゼを自分の膝の上へと座らせた。
家の中に引きこもっていた頃、リゼが不安な顔をした時はいつもこうして、私の体温を直接伝えていたから。
あの子が外の冷たい世界から帰ってきた今、そうするのは私にとってあまりにも当たり前のことだった。
「……って、いやいや、お姉ちゃん!?」
けれど、リゼは驚いたように声を上げ、慌てて隣の席へとスライドするように座り直してしまった。
「ここ、たぶんそういうお店じゃないから!? 多分!」
「んん? どういうこと?」
顔を赤くして言い訳をするリゼに、私は不思議に思って小首を傾げた。
久しぶりに会えた大好きな妹を膝に乗せて何が悪いのか、私には本気で理解できなかったのだ。
「どういうこともなにも……わからないけど、まわりのお客さんの迷惑になるでしょ」
リゼはそう言って、ふと周囲を見渡した。
――その瞬間だった。
あの子の表情から、さっきまでの安堵の赤みが一瞬にして消え失せ、死人のような蒼白に染まっていったのだ。
あの子の視線を追って、私はようやく、周囲の異様な空気に気がついた。
貴族街のカフェにいる客たちが、一斉に、親の仇でも見るような冷酷で残酷な目で、私の大切な妹を睨みつけていたのだ。
『忌み子が聖女様に触るな……!』
『不適合者が、消え失せろ!』
ヒソヒソと交わされる、刃のような悪意の声。
リゼに会えた喜びで周りが見えなくなっていた私は、あの子をこんな衆人環視の、最も悪意に晒される場所に引きずり込んでしまったのだと、遅すぎる後悔に襲われた。
もしもリゼが許してくれていたのなら。いや、そうでなくても家族で決めたんだ。もう我慢させない、侮辱にも侮蔑にも抵抗するって。
私が守らなければ。この下劣な連中の口を、今すぐ魔法で塞いでやらなければ。
心でキースペルを唱え攻撃の準備を――、そう思って手を伸ばした瞬間。
「ごめん……!」
「リゼ!?」
私が制止するよりも早く、リゼは弾かれたように席を立ち、逃げるようにカフェの扉を開けて外へと飛び出していってしまった。
空になった隣の席に、私の伸ばした手だけが虚しく取り残される。
……ああ。私は、また間違えたのだ。
あの子を傷つけたのは、心無い貴族たちじゃない。
あの子の苦しみに気づけず、こんな場所に呼び出してしまった、愚かな私自身だ。
私が手を伸ばすべき場所は、愚かな貴族たちじゃない、リゼの手だったのに。
遠ざかっていく軽やかなベルの音を聞きながら、私は、冷たい絶望と共に、自分の無能さをただ呪うことしかできなかった。




