第8話 - α 昏き英雄――孤独の出陣
いつの間にか、私は泥のように深く眠ってしまっていたらしい。
「……んっ」
目を覚ましてゆっくりと上体を起こすと、薄暗い石牢の中には静かな空気が流れていた。
……今日は……変な夢、見なかった気がするな。
ただ深く、暗い海の底に沈んでいたような、そんな穏やかな眠りだった。
お腹の痛みも随分と引いている。
私は大きく伸びをすると、立ち上がり、壁に立てかけてあった自分の分身――漆黒の大鎌を無意識に手に取っていた。
最初は怖いと思っていたこの大鎌……、けど、これがなければ私はもう死んでる。だから、この漆黒の影は命を繋ぐ大事なものに思えてきていた。
ひんやりとした金属の感触に安心しながら、ふと違和感に気づく。
「あれ……?」
周りを見渡しても、あの大きくて安心する背中がない。
おじさんが、いないのだ。
私が不思議に思って鉄格子の向こうを覗き込んでいると、ちょうど見回りに来ていた例の優しい看守さんが通りかかった。
「あ、看守さん! ……あの、おじさんは?」
私が鉄格子に張り付いて尋ねると、看守さんは少し困ったように首を振った。
「さあ、俺も詳しくは分からんが……何か『大事な用がある』とか言って、一人で抜け出していったぞ」
「抜け出した? ここ、牢屋なのに?」
私が目を丸くしていると、看守さんは苦笑いしながら教えてくれた。
「ギリアムさんは、元々自分から志願してこの闘技場に来た人だからな。出入り自由のフリーパスなんだ」
「へぇーっ、フリーパスなんてあるんだ!」
牢屋に出入り自由なんて、なんだかおかしな話だ。
でも、あの強くて不器用なおじさんなら、それも納得できる気がした。
私は感心して、小さく息を吐く。
看守さんは、話を続けてくれる、おじさんについての話を。
「あの人は……こんな所にいるべき人じゃないんだ。泥沼化していた『聖帝戦争』……、聖国との戦いを終わらせてくれた英雄なんだ。
今は自分を罰するように牢のなかで寝食をしているけど、帝国市民としてはちゃんとした所で寝てほしいものなんだよ」
その声色からは、おじさんへの敬意と憧れが聴こえてきた。
「おじさんはやっぱり、帝国の英雄なんだね」
そんな話を看守さんとしていると。
――コツ、コツ、コツ。
先ほどよりも重く、硬い足音が石造りの通路に響いてきた。
鉄格子の前に現れたのは、看守さんよりも立派な軍服を着た、上官らしき男だった。
男は牢の中にいる私を冷たい虫でも見るかのように一瞥すると、ひどく事務的な声で短く告げた。
「リゼ・イレイナ。仕事だ。新たな魔獣を用意した、闘技場に出ろ」
それだけを言い捨てて、男は踵を返し、足音を響かせながら去っていく。
「……えっ?」
あまりにも突然の宣告に、私も看守さんも少し唖然として、男の背中を見送ってしまった。
やがて、看守さんが深く、ひどく重いため息をつく。
――ガチャリ、と。
無機質な音を立てて、牢の重い鍵が開けられた。
「……急に出番があることなんて、よくあるの?」
私が漆黒の大鎌を握り直しながら尋ねると、看守さんはどこか遠くを見るような、他人事のような声で答えた。
「……多分、今日予定されていた剣闘士が死んだ……、自殺したな」
「じ、さつ……?」
「ああ、……ここではよくあることなんだ。剣闘士の多くは、戦争捕虜や奴隷、そしてお前のように売られてきた人達だ。
……彼らにとっては、最後の尊厳を守るための死なんだ、と俺は思う。……最も上の奴らはそんな尊厳などどうでもいいとばかりにこうやって変わりを用意するんだがな」
看守さんのその言葉には、悲しみよりも『諦め』が深く滲んでいた。
この帝国にとって、剣闘士の命なんて、その程度のもの。
どんなに尊厳を守ろうと極限の行動をしても、代わりはいくらでもいる、ただの消耗品に過ぎないのだ。
おじさんがいない今、私はたった一人で、再びあの狂気と歓声の渦巻く砂の上へ出なければならない。
……大丈夫、元々今までが特別だっただけ。あたし一人でも戦える……!
私は後ろでしっかり髪を纏めると、ギュッと大鎌の柄を握りしめ、冷たい石牢の外へと足を踏み出した。
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R・D




