第72話 - α 自由の風
帝都から北東へと続く街道。
私とおじさんは、立派な馬車に揺られながら『硝煙の都市』を目指していた。
窓から見える帝都の外の景色は、闘技場の地下や邸宅の庭しか知らなかった私にとって、とても物珍しくて新鮮なものだった。
広大で、どこまでも続く草原……、これが旅なんだ、飽きることのない景色が続く、不思議と出会える旅。
……そう思っていたのは、最初の数時間だけ。
基本的にじっとしているのが苦手な私は、すぐに代わり映えのしない景色にも飽きてしまい、馬車のふかふかな座席の上で落ち着きなくモゾモゾと体を動かしていた。
「ねえ、おじさん。これ、アッシュクラフトまでどれぐらいかかるの?」
ついに退屈に耐えきれず、向かいの席で腕組みをして目を閉じているおじさんに尋ねる。
「……アッシュクロフトだ。馬車で三日だな」
おじさんは目を開けずに街の名前を訂正し、淡々と答えた。
「三日……」
長い。長すぎる。いくらなんでも三日もこの馬車の中でじっとしているなんて、拷問に等しい。
「絶対、途中に中継地点を作ったほうがいいと思うんですけどー」
私は座席にぐでーっと寄りかかりながら、早くも飽き飽きした声で文句を垂れた。
すると、おじさんはゆっくりと目を開け、なぜかひどく真剣な顔つきで顎に手を当てた。
「ふむ……。帝都まで早馬で一日。それを基準に、中間に詰所を置くべきだな」
そしておじさんは、懐から一枚の紙とペンを取り出すと、私のただの愚痴を何やら画期的な国家のインフラ計画かのように、サラサラと熱心にメモし始めたのだった。
熱心にメモを取るおじさんを尻目に、私はふかふかの座席にゴロンと寝っ転がった。
「景色も飽きたし、ここじゃ剣の練習もできないし、暇だよー」
はぁっ、と。
私の終わらない文句を聞いたおじさんは、深くため息をついた。そして、ペンをしまってから思いついたように口を開く。
「……小娘。馬車の上で剣振ってきていいぞ」
「上?」
私の間の抜けた声に、おじさんはニヤリと、どこか子供のようなイタズラな笑みを浮かべた。
「馬車旅なら、一度はやっておかないとな」
そう言うと、おじさんは私に手を貸し、立てかけてあったあの立派な『皇剣』を私に持たせた。
促されるままに、私は揺れる馬車の窓枠から身を乗り出し、おじさんの手助けを受けながら馬車の屋根の上へと這い上がる。
「――うわぁ……!」
屋根の上に立った瞬間、思わず感嘆の声が漏れた。
そこで見た景色は、馬車の小さな窓枠から切り取られていた景色とは全く違うものだった。
遮るもののない、見渡す限りの高い青空。そして、どこまでも続く緑の草原。
吹き抜ける風を全身に受けながら見るその壮大な景色に、私の退屈は一瞬にして吹き飛んでいったのだった。
私は、おじさんから渡された皇剣を腰のベルトに下げると、ゆっくりとその美しい鞘から刃を抜き放ち、青空へと真っ直ぐにかざした。
太陽の光を反射したその煌めきは、まるで黄金のように眩しく輝いて見える。
「……こんなに自由な場所があるんだ」
私は眩しさに目を細めながら、再び皇剣を鞘に納め、静かに息を吐いた。
そして、揺れる馬車の屋根の上でしっかりと両足を踏ん張り、腰を落として『居合い』の構えをとる。
狙うは遠く、どこまでも続く地平線。
肺の空気をすべて入れ替え、一気に抜刀する。
――『薄氷』!
見える地平線をなぞるように、思い切り横へと一閃。
そして流れるような動作で手首を返し、もう一度空を裂く。
――『返し薄氷』!
鋭い太刀筋を残したまま、カチャリと刃を鞘に納め、静かに残心をとった。
「――ふぅ」
満足のいく動きができたことに小さく息をつくと、私はそのまま馬車の屋根の上に大の字になって寝転がった。
馬車の旅は、確かにできることは少ない。
こんなにも自由で、不自由。
けれど。
流れていく雲を眺め、風が優しく頬を撫でる感触を全身で味わう。
そのすべてが、私にとっては初めての経験だった。
……ああ、そうか。
地下の薄暗い牢屋で目覚めてからずっと、血に塗れて戦い続けてきた私にとって。
今、こうして馬車の上で空を見上げているこの時間こそが、初めて『自由』を感じる瞬間だったんだ。




