第64話 - β 雪原の境界
大陸の覇権を争う四つの巨大な国。
東の『王国』西の『帝国』南の『共和国』
――そして、北に位置する宗教国家『聖国』
その聖国と帝国の国境付近、極寒の北極に近い雪原に、ポツンと立つ一つの粗末な小屋があった。
吹き荒れる吹雪の音だけが響くその小屋の中に、一人の女性が住んでいる。
かつて雪のように美しかった白い髪は手入れもされずに伸び放題になり、深く澄んでいたはずの青い瞳は、今やまばたきすら忘れたかのように虚ろに濁っていた。
寒さを凌ぐためのボロボロの外套を深く被り、彼女――フィーネ・イレイナは、昼頃になってようやく粗雑なベッドの上で重い瞼を開けた。
「……まだ、生きてる」
ひび割れた唇から、掠れた声がこぼれ落ちる。
先の激しい戦争で、私の心は完全に壊れてしまっていた。
キッチンと呼ぶのもおこがましい板切れの上には、カビの生えかけた黒パンと、カチカチに乾いた干し肉が転がっている。
何をしても無駄なのに。
すべてが終わってしまったのに。
私はどうして、なんで生き延びているんだろう。
泥のように重い身体に鞭を打ち、時間をかけて身を起こす。
そして、ふらつく足取りで部屋の隅へと向かい、そこに立てかけられていた一本の『鉄の長剣』をそっと両手で包み込むように手に取った。
それは私の、最愛の妹であるリゼの遺品。
指先で冷たい刃を撫でながら、私の脳裏に凄惨な記憶がフラッシュバックする。
あの大規模な爆発。
跡形もなく吹き飛んだ大地。
遺体は見つからなかった。
けれど、無残に赤く染まったリゼの服、辺り一面にこびりついていた赤黒い液体。
その絶望の真ん中に、この剣だけがポツンと落ちていたのだ。
あの状況で、生き延びられるはずがない。助かるはずがないのだと、現実が容赦なく突きつけてきた。
私は毎日の日課にしている、サビ一つない鉄の長剣を今日もゆっくりと手入れをする。
ポタ、ポタと。
虚ろな青い瞳から止めどなく涙がこぼれ落ち、冷たい刀身を濡らしていく。
「……リゼ、ごめんね……」
届くはずのない謝罪が、狭く冷たい小屋の中に消えていく。
「私は、何もできない……誰も、助けられなかったんだ……」
完璧な聖女と呼ばれた面影は、そこにはもうない。
私はただ、二度と帰ってこない妹の剣を抱きしめながら、冷たい雪原の果てで一人、後悔の涙を流し続けていた。
どれほどの時間が経ったのか、もう分からない。
ただひたすらに、妹の温もりを探すように剣の手入れを続けていると。
ドンドンッ! ドンッ!
突然、吹雪の音を切り裂くように、小屋の粗末な木の扉が激しく叩かれた。
「魔女さん! 魔女さんッ!!」
扉の向こうから聞こえてきたのは、ひどく切羽詰まった男の声だった。
私は、長剣を大事に置いてから、動かすのも億劫な体をゆっくりと持ち上げ、扉へと向かう。
……誰がどうなろうと、どうでもいいのに。
心が完全に死に絶えている私にとって、他人の必死な叫びなど、吹雪の音と何も変わらない。
面倒くささと鬱屈とした思いを抱えながら、ゆっくりと閂を外し、扉を開けた。
「魔女さん!よかった、開けてくれた……!」
そこに立っていたのは、近くにある帝国の村からやってきたであろう青年だった。
たまにやってくる、面倒な青年。
いまの私にとってはそれだけだ。
彼は雪まみれになりながら息を荒げ、藁にもすがるような目で私を見た。
「村が……っ、村が野盗に襲われてるんです!お願いです、助けてくださいッ!」
青年の叫ぶような懇願が、冷たい風と共に小屋の中に吹き込んでくる。
野盗に襲われている。人が死ぬ。略奪される。
かつて『聖女』であった頃の私なら、すぐさま飛び出していっただろう。
けれど、今の私の心には、何の感情の波も立たなかった。
私は青年に何も答えることなく、無言で背を向けた。
そして、壁に立てかけてある冷たい鉄の長剣へと手を伸ばす。
「……リゼ。ごめん、また、借りるね?」
私を置いていってしまった、大好きだった妹。
その形見である長剣を手に取り、ゆっくりと腰のベルトに提げる。
守れなかった命を思い出しながら、私は虚ろな瞳のまま、ポツリと呟いた。
「行くか……」
それは、正義感からでも、哀れみからでもない。
ただ、この空っぽの体に残された、惰性のような自己犠牲。
私はボロボロの外套を翻し、青年の横を通り抜けて、野盗に襲われているという村へと向かって深い雪原の中を静かに歩き出した。
村までは無言で歩いた。
隣で青年が何かを必死に話しかけてきていた気がするが、私にとってはどうでもいいことだったから。
やがて村の入り口にたどり着くと、青年は慌てて物陰に身を隠した。
「魔女さん、危ない!隠れて……!」
ひそやかな声で私にも隠れるように促してくるが、そんなことすら、私にとってはどうでもよかった。
私はただ、無言のまま雪を踏みしめて、村の広場へと足を踏み入れた。
ヒュッ!
風を切る鋭い音が鳴り、物陰から一本の矢が私に向かって飛んでくる。
ガキンッ!
けれど、矢が私の身体に届く直前、無意識に展開された氷の魔法がいとも容易くそれを弾き落とした。
「ちっ、魔法使いか」
どこからか、舌打ちをする野盗の声が聞こえた。
それでも私は動かない。
そもそも、私にはここから自発的に動く理由すら、そこまでなかったから。
私の用事は野盗の処理だ、出てくるまで待っていればいい。
ただ飛んでくる飛び道具を、無感情に魔法で防いで立ち尽くしていると。
いつの間にか、剣や斧を手にした野盗たちが、私の周囲をぐるりと囲んでいた。
「観念しろ」
ニヤリと下卑た笑いを浮かべた野盗の一人が、私に向かって武器を突きつける。
ようやく出てきたか、まあどうでもいいけど。
だが、次に発せられた言葉が、私の内に秘められた感情を刺激した。
「武器を捨てて投降しろ! そうすりゃ命だけはとらねえ!」
――武器を、捨てろ?
「……私に、この剣を捨てろと?」
私は虚ろな瞳をゆっくりと野盗に向け、低い声で聞き返した。
「そうだ! さっさと投降すれば命はとらん!」
野盗が威圧的に吐き捨てる。
……ありえない。
この剣だけが、私とこの世をつなぐ唯一のものなのに。
これを取り上げられたら、私は本当に、空っぽになってしまう。
これ以上、私から――!
「――私から、また私から!全てを奪うのかぁッ!」
腹の底から煮えたぎるような激情が、一瞬にして私の全身を駆け巡った。
私は両手で大切な長剣の柄を握りしめ、荒々しくけれど、剣が傷つかないように引き抜く。
突然の私の激昂に、野盗たちは意味が分からず一瞬たじろいだ。
「気をつけろ! それなりの魔法の使い手だ! 全員で囲むぞ!」
リーダー格の男が統率をとり、野盗たちがジリジリと包囲を狭めてくる。
だが、私の視界にはもう、周りの景色など一切映っていなかった。
愛するものを奪われた私から、さらに奪おうとした者たちへの怒りだけが、限界を超えて思考を焼き尽くす。
「全員、凍え死ねぇッ!!」
私は両手で長剣を天に掲げ、魔法のキースペルを叫んだ。
「――『デススパイラル』!!」
その瞬間。
私の足元を中心にして、絶対零度の吹雪が荒れ狂った。
地面を突き破り、幾千、幾万もの巨大な氷の槍が、周囲の空間すべてを無慈悲に蹂躙する。
悲鳴を上げる間すら与えない。
幾万の氷の槍は、私の周りにいた全ての野盗の身体を容赦なく貫き、貫き、貫き、そして絶命してもなお、彼らの肉体を何度も貫き続けた。
赤黒い血が雪原に咲き乱れ、一瞬にして、村の広場は巨大な氷の墓標へと変わったのだった。




