EX - 5話 金貨での先払い
「ふぅ……美味しかった」
分厚いステーキをすっかり平らげて、私は満足のいく息を吐いた。
隣を見ると、お姉ちゃんも「お腹いっぱい」と幸せそうに微笑んでいて、どうやら庶民の味はまんざらでもなかったみたいだ。
「リゼ、ここは私が払うわね。エスコート役だから」
大丈夫かな?一応聞いておこう。
「お姉ちゃん……、支払いできる?ここ、金貨使えないけど」
貴族の人たちは、お金を持ち歩かないし、支払いもほとんど金貨だ。
聞いておかないと。金貨しかないのなら、店主さんが困っちゃう。
「お姉ちゃんをなんだと思ってるの?大丈夫、金貨しかないけど、お釣りはリゼのこれからのご飯代の先払いにするから!」
そう言って、お姉ちゃんは立ち上がり、お会計のために店主さんのいるカウンターへと向かっていった。
「お姉ちゃん!?」
それは別の意味で困っちゃうって!金貨1枚ここで食べきるのは難しいって!
私の制止を振り切って会計に向かうその背中を見送りながら、私はズボンのポケットの上から、先ほど隠した小さな紙片にそっと触れた。
『夕刻』『星降り祭』『湖』
指先から伝わるその三つの単語が、チリチリと私の内側を焦がす。
今は、店主さんへの迷惑よりも、こっちが優先かもしれない。
妙な、本当に妙な、嫌な予感がしていた。
ただの勘かもしれないけれど、このままこの情報を無視してはいけないと、私の中の何かが強く警鐘を鳴らしていたのだ。
やがてお会計を済ませたお姉ちゃんと一緒に、酒場の重い木の扉を開けて外へ出る。
毎度あり!とやけくそ気味に叫ぶ店主さんのひきつった笑いが、私へ突き刺さる。
……、ごめんなさい。お姉ちゃん、大体貴族街にいて、市民の常識ないから……。
午後のいい時間、3時を回った職人街は、夜の星降り祭の本番に向けて、さらに活気を増していた。
私は、隣を歩くお姉ちゃんを見上げて、静かに口を開いた。
「……お姉ちゃん。湖を、見てみたい」
その言葉に、お姉ちゃんはピタリと足を止めた。
振り返った彼女の青い瞳が、驚きと、そして強い懸念に揺れている。
「……いいの?」
確認するように、慎重に紡がれた問い。
お姉ちゃんが心配するのも無理はない。
星降り祭は、夜、小さな木製の船に願いとともに魔力を込めて、湖から川に向かって流すお祭りだ。
昔、本当に幼かった頃。最初で最後の一度だけ、私もその祭りに参加したことがあった。
けれど、微弱な魔力すら持たない私の木船には、当然ながら何の光も灯らなかった。
周囲の子供たちの船が美しく輝いて川を流れていく中、私だけが、光らないただの木の塊を持って、湖のほとりで呆然と立ち尽くしていたのだ。
――お前には、星に願う資格すらないのだと。
世界からそう突きつけられたあの日。
その惨めで残酷な記憶を、目の前で見ていたお姉ちゃんは、きっと私よりもずっと深く、鮮明に覚えているのだろう。
だからこそ、私をその湖に近づけまいと、今まで必死に別の話題で誤魔化してくれていたのだ。
「……いい」
私は、過去の痛みを飲み込むように、短く、はっきりと答えた。
今はトラウマから逃げている場合じゃない。
この情報を、騎士団に伝えることも考えたけど、情報の出所は当然聞かれてしまう。
勇気を出して伝えてくれたあのウェイターさんを巻き込むのは避けたい、だから私が、あの湖に行かなければならない。
私の真っ直ぐな視線を受け止めたお姉ちゃんは、少しの間だけ目を伏せて考え込み……やがて、優しく微笑んで頷いた。
「分かった。……じゃあ、木船を『一つ』買っていこうか」
二つ、ではない。
その言葉に込められたお姉ちゃんの深い優しさと気遣いに、私は胸の奥がギュッと温かくなるのを感じた。
「……うん」
私たちは通りに並んだ屋台の一つに立ち寄り、細工の施された木船を一つだけ購入した。
「さっき金貨しかないって言ってたけど、そのお金、どうしたの?」
金貨で買ってたらぼったくられてるけど。
「さっきあのお店の人が、銀貨も銅貨もなきゃ困るだろうって、一部をお釣りとしてもらったんだ」
お姉ちゃんがその木船を大切そうに胸に抱きながら話してくれる、流石店主さん。
厄介なお客さんのアフターケアまでしっかりしてる。
私はそんな店主さんに心のなかで感謝しながら、二人で並んで、星降り祭の舞台となる湖へと歩き出した。
お姉ちゃんに手を引かれるまま歩き続け、やがて私たちは目的の場所である湖へとたどり着いた。
時刻は夕刻。西の空が赤く染まり始めているものの、星降り祭の本番である夜にはまだ少し早い時間帯だ。
見渡す限り、湖のほとりにはまだ誰もいないみたいだった。
お姉ちゃんも周りをキョロキョロと見渡し、私たち以外に誰もいないことを確認すると、胸に抱えていた木船をそっと私の前に差し出した。
「ねえ、リゼ。一緒に、願いを込めてみない?」
不意の提案。私は思わず言葉に詰まった。
「でも、私は……」
……魔力がないから、願いを込める資格なんてない。
けど。
それは違うと言うように、お姉ちゃんは『私の代わりに』ではなく、『一緒に』と言ってくれている。
二人で一つの船に、願いを。
その温かい言葉に背中を押され、私はゆっくりと目を閉じ、お姉ちゃんが大事そうに抱えている木船に向かって、心の中でそっと願いを込めた。
――お姉ちゃんが、いつまでも幸せでありますように。
目を開けると、お姉ちゃんも静かに祈りを捧げ終わったところだった。
次の瞬間。私たちの願いを乗せた木船は、お姉ちゃんの魔力に呼応し、まるで夜空の一等星のように、眩くも優しい光を帯び始めた。
「……」
綺麗だ。あの日、私だけが持てなかった光。それが今、私の目の前で、私の願いも一緒に乗せて輝いている。
「……早いけど、流してみていい?」
私は、その光に魅入られたまま、恐る恐る口にした。
「ええ、どうぞ」
お姉ちゃんは微笑みながら、光り輝く木船を私へと渡そうとしてくる。
「……そうじゃなくて」
私は首を横に振り、お姉ちゃんの手に自分の手を重ねた。
「……一緒に、流してほしい」
私のわがままに、お姉ちゃんは一瞬だけ目を丸くして、それからふわりとに笑った。
「一緒に流しましょうか」
甘く優しい囁き。私たちは木船の端を半分ずつ持ち、湖の水面へとそっとしゃがみ込んだ。
ちゃぷん、と心地よい音を立てて、一等星の光が水に浮かぶ。
二人の手を離れると、光る木船は静かな水面を滑り、やがて湖から続く川の流れに乗って、ゆっくりと進み始めた。
少しの間、私たちは寄り添うようにしてその光を見送っていたけれど。
「……気になる?」
お姉ちゃんが、私の顔を覗き込んでイタズラっぽく聞いてきた。
私は迷うことなく、こくりと頷く。
「ふふっ、じゃあ追いかけましょう!」
お姉ちゃんは私の手をギュッと握り直すと、光る木船を追うようにして、川に沿った道を軽やかな足取りで駆け下っていくのだった。
光る木船を追いかけるようにして、私たちは川に沿った緩やかな道を下っていく。
空はすっかり深い茜色に染まり、時刻は夕刻の18時を回った頃だろうか。周囲の景色が少しずつ夜の影を帯び始めた、その時だった。
――グヂュッ……。
川の淀みから、泥をすするような妙な水音が聞こえた気がした。
同時に。目の前の川面から、肌を粟立たせるような強烈な『殺気』が膨れ上がった。
「お姉ちゃんッ!」
私は鋭く叫び、思い切り腰の剣の柄を掴んで、弾かれたように前傾姿勢で踏み込んだ。
私が強引に前へ出て剣を抜こうとするその勢いに負けまいと、後ろにいたお姉ちゃんは即座に腰のベルトをギュッと掴み、鞘の支えになってくれた。
鋭い金属音を響かせ、鞘から重たい剣が引き抜かれる。
私はためらうことなく、殺気の発生源である水面の影へ向かって一直線に斬り込んだ。
「リゼッ!」
背後から、お姉ちゃんの凛とした声が響く。
次の瞬間、お姉ちゃんの手から放たれた極寒の魔力が、まるで意思を持っているかのように私の直剣の刀身へと纏いついた。
当代の聖女が扱う、最高位の『氷結の魔法』
魔力を持たない私のただの鉄剣が、必殺の冷気を帯びた氷の魔剣へと変わる。
「はぁッ!」
私は気合いと共に、水面から這い出ようとしていたその『殺気の塊』へと、氷の刃を力任せに叩き込んだ。
だが――
……硬い!
生物の肉を裂いたというより、分厚い岩か鉄を叩き斬ったような妙な手応え。
私は即座に違和感を察知し、追撃を諦めて後ろへと大きく跳躍して距離を取った。
お姉ちゃんを庇うように、剣を構えて立ち塞がる。
私の一撃と、お姉ちゃんの氷結魔法に当てられたその『塊』は、水しぶきと白い冷気を上げながら、ゆっくりとその巨体を起こした。
凍りかけた水の偽装――風景に溶け込むためのヴェールが、パラパラと氷の粒になって剥がれ落ちていく。
そのヴェールの下から姿を現したのは。
「……ッ」
ギョロリとした濁った眼球に、不規則に生え揃った無数の鋭い牙。
それは、どう見ても普通の野生動物ではない。醜い怪物――この平和な街には絶対にいるはずのない『魔物』と形容するしかない、異形の存在だった。




