EX - 2話 イレイナ家の秘密
気がつけば、私は息を切らして貴族街を飛び出し、職人街にある見慣れた『鍛冶屋』の屋上へと駆け上がっていた。
「はぁっ、はぁっ……」
乱れた呼吸を整えながら、手すりに寄りかかって街を見下ろす。
ここから見渡す職人街の煤けた風景は、なぜかひどく懐かしく、そして心が落ち着く。
昔からそうだ。嫌なことがあったり、耐えきれなくなって逃げ出すように走った時は、決まって無意識にここへ来てしまっていた。
下の工房にいる鍛冶屋の店主さんが、何も聞かずに居させてくれる優しい人だというのもある。
けれど、それ以上に私にとってここは、理不尽な現実から逃げ込める『セーフゾーン』のような場所だった。
なぜかはわからない。
ただ、熱い鉄を打つ音と煙の匂いが、私の心の中にある空っぽの穴を、ほんの少しだけ埋めてくれるような気がしていたから……だと思う。
「……私の情けないところも、何も変わってないんだな」
立派な騎士になったと報告したかったのに。結局、視線から逃げて昔と同じ場所に隠れている。
私はそんな自分を自嘲するように小さく笑い、街を見下ろすのをやめて、屋上の平らなスペースに大の字になって横たわった。
空を見上げる。
視界いっぱいに、どこまでも広くて澄み切った青空が見えた。
ずっと空だけを見ていれば、自分がイレイナの忌み子だということも忘れられそうだった。
……そんなわけもないのに。
ふと、視線を横へと向ける。
屋上の隅に、木製の小さな船の模型と、そこに嵌め込むための細かい細工が施された彫刻品が置かれているのが見えた。
あれは、この街の伝統的な祭具だ。
「……そういえば、今日か」
――『星降り祭』
夜空に輝く星々に願いを託し、魔力を込めた木船を川へ流す、国を挙げてのロマンチックで美しいお祭り。
けれど、私にとっては違う。
あの小船に乗せた彫刻品は、持ち主の『魔力』に反応して光を放つ仕組みになっている。
だから、常人が持っている微弱な魔力すら一切持たない私には、あの船に光を灯すことはできない。
――魔法が使えない人は、星に願うことすら認められない。
それが、この国が私に突きつける残酷なルールだった。
みんなが笑顔で願いを流す夜、光らない船を持っている私には、嫌でも自分が『不適合者』であることを思い知らされた。
だから、昔からこのお祭りは嫌いだった。
「……嫌になるな」
私は目を閉じ、ポツリと本音をこぼした。
「――そこの可愛い娘さん。今日お暇なら、私とデートしませんか?」
不意に、頭上からそんな声が降ってきた。
男の人のようなナンパな口調。
けれど、その声の響きは、世界中のどんな音楽よりも澄んでいて、私には聞き間違えようのない声だった。
「えっ……?」
パチリと目を開け、視線を再び頭上へ向ける。
逆光の青空を背にして。
そこには、完璧な聖女の出で立ちのまま、ふわりとイタズラっぽく微笑むお姉ちゃんが立っていた。
「……お姉ちゃん、なんで?」
私が呆然として呟くと、青空を背にしたお姉ちゃんは、どこかの舞台役者のように芝居がかった手つきで、私に向かって手を差し伸べてきた。
「さあ、でかけましょう! この世界の全てを知りに!」
完全に役に入りきっているその姿に、さっきまでの鬱屈とした気持ちが少しだけ削がれていく。
「……お姉ちゃん、ナンパする時は、もう少し現実的な話をするんだよ?」
私は呆れながらも、思わずツッコミを入れてしまった。
「そうなんだ?ナンパってしたことないから、お父様の書斎にあったロマンチックな物語みたいにしてみたんだけど……違ったのかな?」
お姉ちゃんは小首を傾げながら、そのまま差し伸べた手を私へと近づける。
私は、少しだけ躊躇ってから、その白くて細い手をそっと握り返した。
「……お話はお話でしょ?あと、お母様にはその本、内緒にしておかないとダメだよ?お父様、そういうロマンチックな小説は隠れて買ってるんだから」
私たちがそれを知っている事を知ってしまったら、きっとお父様はしょぼくれてしまうだろうし、秘密にしてある事は、秘密にしてあげた方がいいと思うんだ。
「ふふっ。大丈夫、お母様はとっくに知っていたから」
私を引っ張り起こしながら、お姉ちゃんはなんてことない風に軽く言ってのけた。
大丈夫じゃないよ?お姉ちゃん?お父様の威厳のピンチだよ?
「えっ、そうなの?じゃあ……お父様には、お母様が知ってるってこと言っちゃだめだよ。お父様は隠してるつもりなんだから」
私は立ち上がりながら、お姉ちゃんの手にギュッと力を込めた。
「お父様にお母様が知ってることがバレなければ、表面上は安全なんだから……」
それは、イレイナ家という厳格な名門の裏にある、ちょっとおかしな家族の日常の風景。
私がどれだけ『イレイナ家の恥さらし』と後ろ指を指されようと、家の中ではお父様もお母様も、そしてお姉ちゃんも、私をただの『家族』として愛してくれていた。
私がイレイナ家を出たのは、そんな優しい家族に、これ以上私のことで迷惑をかけたくなかったから。
無能な私のせいで、気を使わせたくなかったからだ。
でも。
私の震える手と、言葉の裏にある不器用な気遣いを察したのだろう。
お姉ちゃんは、私が握った手を優しく引き寄せ、そのまま私の身体をふわりと抱きしめた。
「……お父様、リゼに気を使われるのは好きじゃないみたいよ」
耳元で、鈴を転がすような優しい声が響く。
「どっちかっていうと……リゼに、気を使ってあげたい方だから」
「あっ……」
その言葉が、強張っていた私の心の鎧を、あっさりと溶かしていく。
迷惑なんかじゃない。気を使う必要なんてない。ただ、愛しているから気を使いたいだけ。
家族の本当の想いが、お姉ちゃんの温かい腕の中から痛いほど伝わってきた。
「……うん」
私はお姉ちゃんの背中に腕を回し、これまでずっと押し殺していたものを解き放つように、ポロポロと涙をこぼした。
「……そうだね、みんな、やさしいからっ……」
泣きじゃくりながら、呟くように答えた私の声を、お姉ちゃんはただ優しく、背中を撫でながら聞いてくれていた。




