第61話 - α 新たに始まる物語
「それでは、本日は一度戻らせていただきます。新たに結んだ契約の準備と、住み込みのための荷物をまとめて、また明日参ります」
そう言って、クレアさんは優雅にお辞儀をし、去っていった。
バタン、と玄関の扉が閉まり、家の中にいつもの静寂が戻ってくる。
私は、閉まった扉をしばらく見つめてから、ふとおじさんの方を振り返った。
「ねえ、おじさん。あの人……本当に信用できるの?」
「ん?」
「いくら優秀でも、悪いことを考えている人の可能性だってあるよ」
おじさんは今や帝国の超重要人物だ。
素性の知れない人間を家に置くのは、どうしても警戒してしまう。
私の直感がそう言わせたのだけれど、おじさんはフッと短く笑い、即答した。
「クラークスは、数少ない生き残りの友人の娘だ。信用できる」
「あ、そうなんだ。……そっか」
それなら安心だ。おじさんが迷いなくハッキリと言うなら、疑う必要はない。
私はホッと息を吐いてから、先ほどの戴冠式での大舞台を思い出し、クスッと笑って言った。
「それにしても、おじさんが総帥になるなんて、すごいね」
純粋な感心から出た言葉だったが、おじさんはそれを聞くや否や、ドッと疲れたように深いため息をついた。
「……全く、やられた。あの皇女、俺に一言も話さずに、あの場でいきなり総帥の座を用意しやがったんだ」
「えっ?」
どういうこと?
「考えてもみろ。戴冠式という大舞台で、新皇帝から直々に指名されて、あそこで俺が受けなければ皇女の立場がないだろう? 本当に、したたかな奴だ」
おじさんは頭をガシガシと掻きながら、心底呆れたように愚痴をこぼした。
「あ、あれ、アドリブだったの!?」
てっきり、事前にそういう打ち合わせがあったのだとばかり思っていた私は、目を丸くして驚いた。
感動的な任命式の裏で、まさかおじさんがお姫様の政治的プレッシャーをかけられていたなんて思いもしなかったからだ。
「俺が一番驚いていたさ」
おじさんはウンザリとした顔でそう吐き捨てると、やれやれと深く肩をすくめたのだった。
「俺はクラークス嬢の書いた紙を確認しておく、先に風呂に入っておけ」
おじさんにそう促され、私はあの綺麗だけれど少し窮屈だった赤いドレスを脱ぎ、温かいお湯にゆっくりと浸かった。
「はぁ……」
思わず、口から深い息が漏れる。
じんわりと身体の芯まで温めてくれるお湯の中で、私はこれからのことについて、ぼんやりと思考を巡らせていた。
今日の戴冠式を経て、この帝国は、名実ともに本当に安全になった。
お姫様が新たな皇帝として立ち、おじさんが総帥として全軍をまとめる。
もう、私が命懸けで誰かを護る必要も、戦う必要もないのだ。
つまり、私がここにいる意味も、もうあまりないということだ。
……そろそろ、私もおじさんに頼ってばかりじゃなくて、自分でなんとかするべきだ。
いくらおじさんが優しいからといって、いつまでもこの家に居候しているわけにはいかない。
おじさんには総帥としての、そしてクレアさんにはハウスキーパーとしての新しい日常が始まるのだから。
幸い、お姫様から多額の報奨金が私個人にも入っているらしい。
当面の生活費や、どこかへ行くための資金には困らないはずだ。
それに、戦争の傷跡がどうなっているのか……この目で、ちゃんと確認したい。
自分が生きてきた世界が今、どうなっているのか。
記憶がない私だからこそ、誰かから聞いた話ではなく、自分自身の足で歩いて、この目で確かめてみたい。
そんな強い思いが、胸の奥で静かに膨らんでいた。
お風呂から上がり、新しく買ってもらった寝間着に着替えて、ふかふかのベッドに潜り込む。
そっと目を閉じると、今日一日の嵐のような出来事がまぶたの裏に浮かんでは消えていった。
……明日、おじさんに話そう……。
心の中でそう、静かに決意して。
私は、おじさんと離れることへの微かな寂しさと、まだ見ぬ外の世界への少しの期待を抱えながら、深い眠りへと落ちていった。
翌朝。目を覚ますと、すでに太陽は高く上がりきっていた。
新しく買ってもらった服に着替えて一階のリビングへ降りると、そこにはすでにおじさんとクレアさんが、山のような書類仕事に追われている姿があった。
「おはよう」
私が声をかけると、クレアさんは手を止めずに「おはようございます、リゼお嬢様」と微笑み、おじさんは書類から目を離さずに「ああ」と短く応じた。
忙しそうな二人を前に少し躊躇したけれど、昨夜お湯の中で決意した思いは、胸の中で確かな熱を持っていた。
「あのさ……二人とも忙しそうだけど、ちょっといい?」
私が真剣な声で尋ねると、おじさんはペンを置き、こちらを向いた。
「……構わん。なんだ?」
おじさんの真っ直ぐな視線を受け止め、私はゆっくりと口を開いた。
「私、旅に出ようと思うんだ」
「……」
「戦争の傷跡を見て回って……自分のルーツを、探したいから」
言葉を紡ぐうちに、昨夜の微かな寂しさが胸に込み上げてきて、視界がじんわりと滲んでくる。
これで、おじさんともお別れだ。そう思うと、どうしても声が震えてしまった。
おじさんは、涙ぐむ私をじっと見つめ、短く「そうか」とだけ言った。
そして、机の上から一枚の紙を手に取ると、ゆっくりと立ち上がった。
「……ちょうどいい」
「……え?」
「……俺も、村を回る予定がある。戦争が終わったとはいえ、ほとんど内戦状態で帝国の流通網はズタズタになっている。総帥として視察し、立て直すための予定を、ちょうど今立てていた所だ」
おじさんは、手に持った紙――書きかけの予定表のようなもの――をひらひらと揺らしながら、事もなげにそう言った。
私は、ぽろりと涙をこぼしながら、信じられない思いでおじさんを見上げた。
「つ、まり……まだ、おじさんと一緒にいられるの……?」
しゃくり上げながら聞く私に、おじさんはフイッと顔を逸らし、ひどく照れくさそうに頭を掻いた。
「……お前が望むなら、だけどな」
「おじさんっ!」
私は堪えきれず、涙と鼻水を顔いっぱいに浮かべたまま、おじさんの胸に思い切り飛び込んで、ギュッと抱きついた。
「おい、やめろ! 暑苦しいだろうが!」
おじさんは口では文句を言いながらも、私を力ずくで振りほどくようなことはしなかった。
クレアさんがその様子を見て、書類の陰でクスッと上品に笑っているのが聞こえた。
こうして。
新たな仲間と、白銀の盟剣『アリィス』を胸に。
私とおじさんの、新たな旅が始まるのだった。
第一部・完
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R・D




