第60話 - α ハウスキーパー
無事に戴冠式が終わり、私たちは馬車に揺られて帰路についていた。
「……小娘、大丈夫か?」
向かいの席から、珍しく疲労の色を滲ませたおじさんが声をかけてきた。
「……店員さんがいてくれたから、なんとかね」
私は馬車のシートに深く背中を預け、ぐったりとした様子で答えた。
店員さんが間に入ってくれてなかったら間違いなくやられていた、貴族たちのあの間合いの入り方は、どんな達人よりも早い。
そして、身体を動かしたわけでもないのに、慣れない社交界の空気とプレッシャーは、戦場以上に体力を削ってくる。
私の隣に座っていた店員さんが、折りたたまれた数枚の紙をスッとおじさんに差し出した。
「リゼお嬢様にきたお話はこちらにまとめてあります」
そんな重要なリストを、事もなげにサラリと言ってのける。
おじさんはそれを「あぁ」と受け取るだけ受け取ってから、ふと店員さんの目を見た。
「クラークス嬢、追加の依頼をしてもいいか?」
「かしこまりました。お代は後日払っていただければ」
店員さんは、何の用件かも聞かずに即座に引き受けた。
その迷いのなさに驚きつつ、私はぐったりしたまま首を傾げた。
「クラークスさん……? が、名前なの?」
「はい。クレア・クラークスと申します」
店員さんは、馬車の中でも姿勢を崩すことなく、完璧な笑顔で名乗った。
クレアさん。ようやく彼女の名前を知ることができた。
私は名前を聞くのをよく忘れちゃう、これは私のあり方なのかな?それとも記憶がなくなったら、名前に頓着しなくなっただけなのか、わからない。
「それで、追加のご依頼とは?」
クレアさんがおじさんに向き直って尋ねる。
おじさんは少しだけバツの悪そうな顔をして、重い口を開いた。
「……書類仕事だ。うちに溜まっている仕事を引き受けてもらえるとありがたい」
総帥という途方もない地位に就いたばかりだ。
これまで一人で抱えていた仕事に加えて、さらに膨大な量の事務処理が待ち受けているのは想像に難くない。
それを聞いたクレアさんは、少し思案するような素振りを見せてから、どこか不安げに眉を下げた。
「私で力になれることなら良いのですが……」
「詳しい話は家でいいか?」
おじさんがそう尋ねると、クレアさんは静かにコクンと頷いた。
こうして、私たち三人を乗せた馬車は、家へと向かって走っていくのだった。
馬車が家に到着し、玄関へと向かう道すがら。
クレアさんは、手入れされず荒れ放題になっているおじさんの家の庭を見て、あからさまな、引きつったような表情を見せていた。
完璧な笑顔を崩さなかった彼女が初めて見せた人間らしい反応に、私は少しだけ親近感を覚える。
しかし、いざ家の中に入ると、思ったほど散らかってはいなかったのか、クレアさんは小さく息を吐いてホッと安心したような姿を見せた。
おじさんは基本的に物が少ないし、最低限の掃除はしているからだろう。
そういえば、最初に来た時は埃っぽかったのに、いつのまに掃除したんだろう?
「それで、書類仕事とは?」
私が他の事を考えている間に、玄関先での短いやり取りを終え、クレアさんが本題を切り出す。
おじさんは重々しい足取りで廊下を進むと「……これだ」と言って、自分の書斎の扉をガチャリと開けた。
そこは、一見するとそこそこ整理されているように見える部屋だった。
机の上や床には紙の束がいくつも積まれているが、無造作に散らかっているわけではなく、一応の法則性を持ってまとめられているように見える。
しかし、おじさんはその紙の山を見つめたまま、信じられないことを口にした。
「1年前から、書類仕事に一切手を付けられていない。……どうだ?」
――なっ。
「おじさん!?」
私は思わず、素っ頓狂な声を上げてしまった。
「1年も仕事を溜めるって、それ大丈夫なの!?」
「…………」
私の至極真っ当なツッコミに、おじさんはバツが悪そうに視線を逸らした。
「あのときは、自暴自棄だったからな……。それに、書類仕事に手を付けられるほど、精神的な余裕もなかった」
「うっ……」
それを言われると、何も言い返せない。
国が権力闘争で荒れ果てる中、軍として矢面に立ち、多くの仲間を失っていく絶望の中で、家の机に向かって事務作業をする余裕なんてあるはずがない。
そう考えると、この1年分の書類の山は、おじさんが抱えてきた苦悩の重さそのものなのかもしれない。
私が少しだけしんみりとしていると、クレアさんはツカツカと机に歩み寄り、積み上げられた紙の束をペラペラと素早くめくり始めた。
「なるほど……。この程度なら、私でも力になれそうです」
「えっ」
1年分の書類の山を前にして、彼女は顔色一つ変えずにそう言いのけた。
「ハウスキーパーとして雇っていただければ、このお仕事、すべて完遂してみせますが」
「本当か!?」
さらりと提案したクレアさんに、おじさんは今日一番の驚きと、縋るような目を向けた。
「ああ。ぜひ、正式に雇いたい」
こうして、おじさんの家に「超優秀なハウスキーパー」という、心強すぎる新たな仲間が加わることになったのだった。




