第56話 - α 始まりの恩人
おじさんとご飯を食べてから、数日後。
私は、一人で闘技場の前に立っていた。
この数日間は、まるで夢のように穏やかだった。
毎日温かいお湯に浸かって汚れを落とし、新しく買ってもらった服を着て、ふかふかの柔らかいベッドで眠る。
そんな普通で恵まれた生活の中で、私の身体はゆっくりと、確実に休まっていた。
そして今日、おじさんから「看守の取り調べが終わったらしい」と聞き、居ても立っても居られずここまでやって来たのだ。
「来たのはいいけど……闘技場にいるのかな?」
見上げる闘技場は、相変わらず血生臭い空気を漂わせている。
勝手に捕虜だった私たちを解放したのだ。
オーナーにこってり怒られて、首になって追い出されていたりするかもしれない。
私がそんな心配をしながらウロウロしていると。
「――リゼ、お前無事だったんだな!」
後ろから、聞き馴染みのある少しぶっきらぼうな声がした。
振り返ると、そこには見慣れた制服姿の看守さんが立っていた。
「看守さん! そっちも無事だったんだね」
少しくたびれてるけど、元気そうでよかった。
「まあな。取り調べでこってり絞られたけどな」
看守さんはやれやれと首を振りながら、苦笑いを浮かべた。
けれど、その表情はどこか晴れやかで、以前のような暗い影はなくなっているように見えた。
「看守さん、これからどうするの? ここで働き続けるの?」
私が尋ねると、看守さんは少しだけ闘技場を見上げてから、ゆっくりと首を横に振った。
「いや、故郷の村に帰ることにしたんだ。……元々、こんな仕事したくてしてたわけじゃないしな、……今日は辞表を叩きつけるために来たんだぜ?」
看守さんは笑うと、懐から1枚の紙を見せてきた
「そっか」
少し寂しい気もするけれど、彼がこの血塗られた場所から離れられるのなら、それが一番いい。
……おじさんも言ってた、普通の精神をもって、ここで働き続けるのは辛い、血と暴力に酔ってしまったほうが楽だって。
私は小さく頷いてから、ずっと胸につかえていた、一番聞きたかったことを口にした。
「……最後にさ。名前、教えてよ」
「あ……」
看守さんはパチクリと瞬きをしてから、照れくさそうに頭を掻いた。
「俺の名前……そういえば言ってなかったな。俺はロミオ。ロミオ・アーベルだ」
「ロミオ……ロミオさん、かあ」
口の中で、その名前を何度か反芻する。
私はマントを少しめくり、腰に巻いた彼からのベルトを見せた。そして、スッと一本の短剣を抜いて胸の前で構えた。
「ありがとう! ロミオさん!」
真っ直ぐに彼の目を見て、ありったけの感謝を込めて叫ぶ。
「この剣のおかげで、私は生き残れたよ!」
私の命を繋いでくれた短剣を掲げるように見せる。
「お、おう……?」
あまりにド直球な感謝の言葉に、ロミオさんがあっけにとられている。
その顔を見た瞬間、自分のやったことが急に恥ずかしくなってきて、一気に顔に熱が集まるのを感じた。
「じゃ、じゃあ、私の用事終わったから! またね! ロミオさん!」
「えっ? おい、ちょっと待てって――!」
私は彼が何かを言い終わるよりも早く、くるりと背を向けて足早に駆け出した。
残されたロミオ・アーベルは、嵐のように去っていく少女の背中を見送りながら、呆れたように小さくため息をついた。
「……用事が終わったって。わざわざ、それを伝えに来てくれたのかよ」
文句のような口ぶりだったが、その口元は自然と緩んでいた。
彼は、少女が生き残るために振るっていた大鎌の輝きを思い出し、ポツリと呟く。
「……ありがとな、リゼ。真っ直ぐに足掻くおまえを見て、俺も変われた気がするんだ」
闘技場に吹き抜ける風が、彼の新しい旅立ちを祝福するように、優しく通り過ぎていった。




