第52話 - α 忘れた休み方
その後も、私は自分が納得いくまで、何度も何度も剣を振り続けた。
剣と……、自分と向き合うこの時間で色々な技を忘れていたことが分かってきた。
一つの居合いを試すと、その先の技がふと思い浮かぶ不思議な感覚、……きっと私は、もっと沢山貰ったものを落としてしまったのだろう。
疲労と共に汗が滲む頃には、空はすっかり明るくなり、朝日が庭の草木を黄金色に照らし出していた。
……ふう、こんなものかな。
大きく息を吐き、皇剣を鞘に収めて家の中へと戻る。
扉を開けると、ふわりと香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
ダイニングに入る。古びた木製のダイニングテーブルには、こんがりと焼かれたパンの上に、とろりと溶けかけたバターが乗ったトーストが二つ、無造作に置かれている。
その向かいの席には、すでにおじさんがどっかりと腰を下ろしていた。
「食べるぞ、小娘」
私と目が合うなり、おじさんは短くそう言って、さっそく自分の分のトーストをかじり始めた。
昨日は『リゼ』って呼んでくれたのに、またいつもの小娘呼びに戻っている。
けれど、そのぶっきらぼうな声色には確かな温かさが滲んでいた。
「……うん」
私は小さく頷き、おじさんの向かいの席に座る。
まだ温かいトーストを手に取り、一口かじると、サクッとした心地よい音と共に、バターの濃厚な風味と塩気が口いっぱいに広がった。
――美味しい。
世間にとってはなんてことのない、ただのバタートーストなのだろう。
だけど、誰かと向かい合って一緒に迎えるこの朝の食卓が、今の私にはたまらなく温かくて、優しかった。
「今日からはしばらく休みだ」
おじさんは、口元についたパンくずを手の甲で雑に拭うと、そうぶっきらぼうに告げた。
「皇女殿下の皇位継承の手続きやら何やら、上の方でバタバタ進んでいるみたいだが……俺たちみたいな現場の人間には、もうできることはないからな」
……なるほど。戦いが終わったんだ、と改めて実感する。
昨日まではただ目の前の敵を倒し、避難を誘導することだけで頭がいっぱいだったのに。
「……小娘。何か、やりたいことはあるか?」
おじさんの唐突な問いに、私はスプーンを握る手を止めて少しだけ考えた。
やりたいこと。……ないものねだりかもしれないけれど、やっぱりあの人が気になる。
「……まずは、看守さんに会いたいかな」
私の命を繋いでくれた、名前も知らない恩人。
「……あいつか」
おじさんは小さく鼻を鳴らすと、少しだけ眉間に皺を寄せて言った。
「残念だが、あいつは今、軍の取り調べを受けている最中だ。内部調査ってやつだ。事情聴取には数日かかるだろうからな。……また今度にするんだな」
「……そっか。そうだよね」
返ってきた現実に、私は小さく肩を落とした。
考えてみれば当然だ、緊急事態だったとはいえ、捕虜を解放してしまったのだから。
せっかくの休暇だと思ったけれど、守るべきものも、倒すべき敵もいない今、自分が何をすればいいのか、さっぱり分からない。
「じゃあ……えっと。あんまり、ないかな」
……私は何がしたいのか、分からない。
そう答える私の声は、自分でも驚くほど小さく、力なく響いた。
「……そうか」
おじさんはそれ以上何も聞かず、ただまた無言でトーストをかじり始めた。
カチ、カチと時計の音が部屋の中に響く。
なんだかその音が、いつもよりずっとゆっくりと、長く感じられる朝だった。
「なら、服を買いに行くぞ」
沈黙を破ったのは、おじさんのそんな突拍子もない提案だった。
私は驚いてパチクリと瞬きをした。
「お前、着替えぐらい持て」
「え……でも、お金が」
闘技場の牢屋にいた私には、当然持ち合わせなんてない。
身寄りもない私が、これ以上おじさんに負担をかけるわけにはいかない。
申し訳なくて遠慮すると、おじさんはグッと眉を寄せて私を睨んだ。
「口答えするな。必要なものは買う、それだけだ」
少し語気を強めたその言葉には、有無を言わさない圧と、やっぱり隠しきれない不器用な優しさがあった。
英雄として国を救ったのに、報酬の要求すらしないおじさん。
そんな彼が私のためにお金を使ってくれると言うのだから、これ以上拒むのは野暮というものだろう。
「……ありがとう、おじさん。じゃあ、着替えてくるよ」
脱衣所に置いてある、昨日まで着ていた自分の服を取りに行こうと立ち上がった私を、おじさんが手で制した。
「いや、このまま出るぞ」
「えっ、でもこれ……」
「お前の服は血を吸いすぎだ。本格的にクリーニングに出す。今日はその格好のまま行って、向こうで買ったものを着て帰ればいい」
確かに、私の服は泥と煤と、それに何度も浴びた返り血で、もう普通に洗ったくらいではどうにもならないほど汚れてしまっている。
私は大人しく引き下がり、おじさんが貸してくれたサイズの大きい服のまま、出かける準備をすることにした。
腰に看守さんがくれた愛用のベルトをキュッと巻き付け、ホルスターに四本の短剣をしっかりと収める。
そして最後に、黄金と白金の輝きを放つ皇剣『プロウド』を下げた。
ダボっとした少し大きめの服に、物騒な短剣と、どう見ても釣り合わない豪奢な皇剣。
鏡で見なくても分かるくらいちぐはぐな格好だったけれど、これが今の私の、精一杯の「お出かけ」の準備だった。




