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空白の少女と錆びた英雄 ――音を聴く大鎌の少女、帝国の闘技場で弾丸と舞う――  作者: R.D
第一部

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第48話 - α 今だけは――

 泣き疲れて、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。


 ふと目を覚ますと、私は見知らぬ天井の下、ふかふかのベッドの上に寝かされていた。


 おじさんが、ここまで運んでくれたのだろう。


 昨日の夜はお姫様と身を寄せ合って寝たから温かかったけれど、一人で寝るこのベッドはやけに広く、少しだけ肌寒く感じられた。


「……あたし、甘えてばっかりだな」


 ぽつりと呟いた声は、静かな部屋に吸い込まれて消えた。


 窓の外からは、青白い月明かりが差し込み、床を優しく照らしている。


 私はベッドの上にゆっくりと身を起こし、これから先のことをぼんやりと考えた。


 記憶をなくして闘技場の暗い牢で目覚め、急に戦えと言われて。


 かと思えば、その血みどろの殺し合いの日々も、クーデターという形で唐突に終わりを告げて。


 気がつけば内乱の渦中に放り込まれ、また血を流し……そして、それも今日で終わった。


 ――私が次に行くべき場所は、どこなんだろう。


 戦う理由も、自分の確たる居場所も見失ってしまったような気がして、ふと視線を横に向ける。


 ベッドの横の小さなテーブルに、私のベルトと、そこに取り付けられたホルスターが置かれていた。


 私はホルスターごとそれを手に取り、中に収まっている『短剣』の冷たい柄を指先でそっとなぞる。


「……看守さんにも、感謝しないとなぁ」


 看守さんがくれたこの数本の短剣。


 これがなければ、私はあの大立ち回りを生き残ることは絶対にできなかった。


 間違いなく、私の命を繋ぎ止めてくれた恩人の一人だ。


「そういえば……名前、聞いてなかったな」


 月明かりに照らされる短剣を見つめながら、私はふとそんなことに気がついた。


 明日あの場所へお礼を言いに行こう。そして、今度こそちゃんと名前を聞こう。


 明日やるべき『小さな目的』を一つ見つけたことで、私の胸の中にあった空っぽな穴が、ほんの少しだけ埋まった気がした。


 そんなことを考えていると、コンコン、と控えめなノックの音が部屋に響いた。


「……おじさん?」


 私が声をかけると、ガチャリと扉が開き、少しだけ気まずそうな顔をしたおじさんが顔を覗かせた。


「小娘、起きたなら風呂に入れ。……しっかり洗うから、着ていた服も出しておけ」


 用件だけを早口で言い残し、おじさんはバタンと扉を閉めて足早に去っていってしまった。


 取り残された私は、その閉まった扉をぼんやりと見つめ、やがてふふっと小さく吹き出した。


「……素直じゃないなぁ、おじさんは」


 ぶっきらぼうな態度と乱暴な言葉遣い。


 けれど、その奥に隠された彼なりの優しさが、今の私には痛いほど伝わってくる。


 おじさんはきっと、私が起きて泣いていないか、ずっと扉の外で気にかけてくれていたのだろう。


 私はベッドから降りて、おじさんが沸かしてくれたお風呂へ向かうために立ち上がった。


 記憶を失ってからずっと、誰かのために、生き残るために、必死に剣を振るい続けてきた。


 自分のことなんて後回しで、ただ前に進むことしか考えていなかったけれど。


「……今だけは」


 今日くらいは、こんなふうに自分を労ってあげてもいいのかもしれない。


 おじさんの不器用な優しさと、静かな月明かりの下で。私はほんの少しだけ、自然とそう思えたのだった。



 脱衣所へと向かい、昨日お姫様と一緒に入った時のように、泥と血に汚れた服をゆっくりと脱ぎ捨てる。


 ふと、壁に据え付けられた鏡に映る自分の姿と目が合った。


 そこに映るのは、真新しいものから古いものまで、無数の傷跡が刻まれた私の身体。


 その傷口をはっきりと認識した瞬間、チクリとわずかな痛みを感じた。


 けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。


 その痛みは、私が記憶を失ってからの日々も、あの凄惨な戦場も、すべてが夢ではなく『現実』なのだと教えてくれているようだったから。


 視線を落とす。


 相変わらず、私の両手はべっとりと赤い幻の血にまみれて見えた。


 洗い場に座り、シャワーを浴びて肌が赤くなるまで擦っても。石鹸の泡でどれだけ丁寧に洗っても、その幻の血が完全に落ちることはなかった。


 ――でも、今はそれでいい。


 ほんの少しだけ、自然とそう思えた。


 この血は、私が背負っていくべき過去であり、大切な人たちとの約束の証でもあるのだから。


 無理に洗い流して無かったことにするのではなく、共に抱えて生きていく。


 おじさんの不器用な優しさが、私にそう思わせてくれた気がした。


 私は立ち上がり、たっぷりと張られた温かい湯船の中へ、ゆっくりと身体を沈めた。


「……ふぅ」


 全身を包み込む優しい熱に、強張っていた筋肉がじんわりと解けていく。


 私は静かに目を瞑り、複雑な思考をすべてお湯の底へと追いやった。


 今はただ、何も考えず、この温かくて気持ちのいいお湯に浸かっていよう。


 私は小さく息を吐き出し、ただ静かに、自分自身の身体と心を休ませる時間へと身を委ねた。

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