第45話 - α 剣の煌めき――掲げる正統
――やがて涙が枯れ果て、私は力なく顔を落とした。
ぼんやりとした頭で、先ほどフラッシュバックした記憶の断片を整理しようと試みる。
スメラギさん、カラクさん、モリッツさん、カイナ、モルドさん。
彼らとどんな日々を過ごし、どんな言葉を交わしたのか、詳しい記憶はまだ完全に思い出すことはできない。
けれど、彼らが私にとってどれほど大事な人たちだったのか。
それだけは理屈ではなく、心が痛いほどに理解していた。
うつむいた私の視界に、床に転がる皇剣『プロウド』が映る。
私は何かに引き寄せられるように、その豪奢な剣を手に取り、ゆっくりと鞘から引き抜いた。
薄暗い馬車の中でも、その刃は冷たく、そして恐ろしいほどに美しく煌めいていた。
指先でそっと、鋭い刃に触れる。
綺麗だ、命を奪う為のものとは思えないほどに煌めいて、私の罪を咎めるかのように神々《こうごう》しかった。
――きっと、これを自分の胸元に突き刺せば。
私も、彼らと同じように。
「……らくに、なるかな」
ポツリと、無機質な声が漏れた。
この、息をするのも苦しいほどの絶望と、手にこびりついた幻の血の匂いから解放されるのなら。
私はゆっくりと皇剣の切先を返し、自分の胸元――心臓の鼓動が鳴る場所へと向けた。
それを実行しようと、腕に力を込めかけた、まさにその時だった。
「――リゼッ!!」
外の喧騒を切り裂くように、聞き慣れたおじさんの切羽詰まった叫び声が響いた。
直後、鼓膜を打つような乾いた銃の発砲音が轟く。
「……っ!」
死へ向かっていた私の思考は、その一瞬で完全に白紙に染め上げられた。
気がつけば、私は無意識のうちに馬車の扉を蹴り開けていた。
胸を突こうとしていた右手に皇剣を握りしめたまま。自分でも驚くほどの速度で、銃声のした方角へと弾かれたように駆け出していた。
「――――!」
馬車を飛び出して真っ先に視界に飛び込んできたのは、ひび割れた石畳の上で銃を構える一人の帝国兵。
そして、その後方の物陰で、ソフィをしっかりと抱え込んで庇っているおじさんの姿だった。
私は迷わず、銃を構える帝国兵の元へと一直線に飛び込んだ。
「ヒッ……! く、来るなァッ!!」
突如として現れた私に気づき、帝国兵はパニックに陥ったように発砲を繰り返した。
バンッ! バンッ! とけたたましい音が連続して響くが、焦りに支配されたその銃口はブレており、放たれた鉛玉はすべて私の身体をすり抜けて後方の壁を穿つだけだった。
数瞬で距離を詰めた私は、鋭い踏み込みと共に皇剣を突き立てるように構え、帝国兵の無防備な首元へと白刃を走らせた。
「殺すなッ!!」
――その瞬間、おじさんの怒声が響き渡った。
「っ!」
私は反射的に腕の筋肉を軋ませ、全力で剣の軌道を強引に逸らした。
鋭利な皇剣の刃は、帝国兵の首を斬り裂く寸前でピタリと止まり、皮膚をほんの薄く掠めて撫でる程度に留まった。
「あ……ぁ……」
死を覚悟した帝国兵が、腰を抜かしてその場にへたり込む。
私はすかさず彼と物陰の間に割って入り、おじさんとソフィを庇うようにして剣を構え直した。
強引に軌道を捻じ曲げた右腕が、悲鳴を上げるように痺れ、小刻みに震えている。
いつもなら、迷わずその命を刈り取っていた。
恩人や親友の心臓すら貫いたこの手で、また一つ、罪を重ねていたはずだった。
けれど、今回は――殺さなかった。殺さずに済んだのだ。
剣を握りしめる自分の手を見下ろす。
馬車の中であれほどべっとりとこびりついて見えた幻の血潮が、皇剣の放つ神々しい光に照らされ、ほんの少しだけ……薄らいで見えた気がした。
へたり込んだ帝国兵は、首から流れる一筋の血に触れながら、私とおじさんを睨みつけ、血を吐くような声で叫んだ。
「お前たちが……お前たち貴族が、権力闘争なんかに明け暮れていなければ……っ! 帝国は、俺たちは! もっと豊かになっていたはずなんだ!!
戦争が終わって何年も経つのに、俺たち市民がジリジリと貧困に苦しめられ続けるわけがなかったんだッ!!」
それは、憎しみというよりも、行き場のない悲痛な嘆きだった。
その涙混じりの叫びを聞いた瞬間、私の手から力が抜けそうになった。
――そう……だよね。
この人たちは、ただ普通に生きたかっただけなのだ。
上の人間たちが勝手な争いを繰り返したせいで、理不尽に苦しめられ、こんな暴挙に出るしかなかった。
過去の戦場で命を散らした聖国の人たちと同じ、彼らもまた、犠牲者なのだから。
私が皇剣を構えたまま立ち尽くしていると、背後からコツ、コツと杖を突く音が響いた。
「よく見ろ!!」
おじさんが、私の隣へと力強く歩み出て、声を張り上げた。
その姿は、足を引きずる初老の男ではなく、かつて帝国を勝利に導いた『英雄』そのものの威厳に満ちていた。
「権力闘争に明け暮れ、クーデターを画策したハト派とタカ派の愚かな貴族どもは、もう粛清した! これ以上の内乱は起きない!」
おじさんの地を這うような太い声が、喧騒に包まれた周囲の空気を震わせ、周囲の避難民や他の兵士たちの視線までもを一斉に惹きつけた。
おじさんは手にした帝剣『インペル』を高々と掲げ、そして、私が握りしめている剣を指し示した。
「権威を奪おうとした輩が奪っていった『皇剣』と『帝剣』は、今、すべて正統なる皇女殿下の元に集っている! これが、何よりの証拠だ!!」
おじさんのその力強い言葉に呼応するように。
私の背後に隠れていた小さな影が、ゆっくりと、けれど確かな足取りで前へと進み出た。
「お姫様……?」
彼女はもう、怯えるような顔をしていなかった。
今朝、温かい朝食を前に「私が、行きます」と宣言した時と同じ、気高く真っ直ぐな瞳。
小さな両手を胸の前でしっかりと組み、泥に塗れた帝国兵や避難民たちを、慈しむように見つめている。
その言葉に、へたり込んでいた帝国兵はハッとして私たちを見た。
私の手にある、光を浴びて美しく煌めく、皇剣『プロウド』
そして、決して逃げようとしない皇女の気高い立ち姿。
圧倒的な権力と正統性の象徴が、今、自分たちの目の前にある。
「あぁ……、あぁ……っ」
帝国兵の目から、怒りの色がスッと抜け落ちていく。
彼は呆然としたように手放した銃を見つめ、やがて地面に額を擦りつけるようにして泣き崩れた。
帝国兵が呆然と銃を手放し、泣き崩れたその時だった。
お姫様が、ゆっくりと彼に向かって歩みを進めた。
「お姫様……っ!?」
私はハッとして止めようと手を伸ばしたが、隣にいたおじさんの太い腕がそれを遮った。
「待て。飛び込む準備だけしておけ」
おじさんの目は、彼女の行動を最後まで見届けるように、真っ直ぐに前を見据えていた。
私は奥歯を噛み締め、右手の皇剣の柄を強く握り直し、いつでも駆け出せるように姿勢を低くして見守った。
お姫様は、地に伏して泣きじゃくる帝国兵の目の前まで行くと、その小さな体を折り曲げて、泥だらけの石畳の上にそっとしゃがみ込んだ。
「……顔を、上げてください」
鈴の鳴るような、けれど凛とした声。
帝国兵がゆっくりと泥まみれの顔を上げると、お姫様は彼とまっすぐに視線を合わせ、深く、深く頭を下げた。
「申し訳、ありませんでした。……私の力が至らなかったばかりに、あなたたちにこんなにも辛い思いをさせてしまって」
「皇女……殿下……?」
その言葉に、私は息を呑んだ。
国の頂点に立つ血筋の彼女が、自分に銃を向けた一介の兵士に向かって、心から謝罪しているのだ。
「もし、それであなたの気が済むのなら……私の命を、あなたに捧げます」
お姫様のその言葉に、私は心臓が跳ね上がり、思わず飛び出しそうになった。
だが、彼女はすぐに顔を上げ、強い光を宿した瞳で真っ直ぐに言葉を続けた。
「でも……この帝国を立て直し、皆でもう一度立ち上がる為に。私は、まだここで命を渡すことはできないのです」
兵士も、周囲の避難民たちも、そして私も。
誰もが、彼女の紡ぐ言葉の引力に惹きつけられ、身動きすらできなくなっていた。
「だから、どうか。まずはこの帝国と一緒に立ち上がる為に……私に、力を貸していただけませんか?」
そう言って、彼女の小さくも温かい手のひらが、兵士へと差し伸べられる。
「あ……ああ……ッ」
兵士は、差し出されたその小さな手を縋るように見つめ、震える両手で顔を覆い、今度こそ大声を上げて泣き崩れた。
「……はい……ッ。どこまでも……ついて、いきます……ッ!」
それは、武力による制圧でも、恐怖による支配でもない。
ひとりの少女の覚悟が、暴徒の心を完全に救い上げた瞬間だった。
「…………」
私は、その眩しすぎる光景を、ただ立ち尽くして見つめていた。
私の手は、血に塗れている。
過去に大切な人たちを苦しみから救う時も、私は、命を奪うことでしか彼らを救ってあげられなかった。
けれど、お姫様は違う。
彼女は武器も持たず、たった一つの覚悟の言葉だけで、敵の心を救い、味方にしてしまった。
……すごいんだ。やっぱり、お姫様はすごい。
私が絶対に持っていない、人の心を動かす光を持っている。
そう思うのに。
彼女の気高い姿を誇らしく思うのと同時に、彼女と私の手の『汚れ方の違い』を見せつけられたようで、私の胸の奥が、ほんの少しだけ、チクリと痛んだ。




