第44話 - α 思い出した罪、血塗られた手
「――――ハッ!」
私は大きく息を呑み、弾かれたように身を起こした。
視界が揺れている。ガタガタと車輪が石畳を鳴らす音が響く。
そこは、見知らぬ馬車の中だった。
心臓が、破裂しそうなほどの早鐘を打っている。
息が上手く吸えない。
そして何より、目からボロボロと止めどなく涙が溢れ出し、私の頬を伝って膝へと落ち続けていた。
「……おい、小娘」
向かいの席から、低く落ち着いた声がした。
顔を上げると、おじさんが何も聞かずに、ただ黙って清潔なハンカチを私へと差し出していた。
「……っ、あ……」
私は震える手でそれを受け取り、ぐしぐしと乱暴に涙を拭った。
深呼吸を繰り返し、少しだけ心拍を落ち着かせてから、まとわりつく悪夢を強引に振り払うようにして口を開く。
「……おじさん、これ……どういう状況?」
なんとか周りを確認する、私は着替えようとして、それで――
少なくとも馬車には乗っていなかったはずだ。
「皇女殿下の慰問の為の、移動中だ」
おじさんは短く事実だけを告げると、私の隣へと静かに目配せをした。
ハッとしてそちらを向くと、そこには私の服の袖をぎゅっと握りしめ、ひどく心配そうな顔で私を見つめるソフィの姿があった。
「リゼお姉様……」
――こんな小さい子にまで心配をかけて、私は……。
「あ……ごめんね、ソフィ。大丈夫、何でもないよ」
私は無理やり口角を上げ、ソフィの小さな頭をぽんぽんと撫でた。
「そろそろ目的地だ」
おじさんの言葉に、私は馬車の床へと視線を落とした。
そこには、豪華な装飾が施された皇剣『プロウド』と帝剣『インペル』が並べて置かれていた。
権力と正統性の象徴たる、二振りの国宝。
「……おじさん」
私は、自分の声が情けないほど震えているのを自覚しながら、掠れた声で紡いだ。
「今回は、ちょっと……時間、欲しい。……おじさんは英雄なんだからさ、おじさんが剣を掲げたほうが、絶対に権威がつくし」
「…………」
「……だから、ちょっとだけ……護衛、休ませて……」
力なくそう懇願する私を、おじさんは静かな瞳でじっと見つめていた。
やがて、彼は「ふん」と短く鼻を鳴らし、床から『帝剣』だけを拾い上げた。
「……そいつはリゼ、お前が持ってろ」
それだけ言うと、馬車がゆっくりと停車した。
外から喧騒が聞こえ、扉が開かれる。
おじさんは帝剣を携え、ソフィを伴って馬車を降りていった。
私を一人、馬車の中に残して。
バタン、と扉が閉まり、馬車の中に薄暗い静寂が戻る。
途端に、堰き止めていたものが完全に決壊した。
「……っ、う……あ、ぁぁ……っ」
私は両手で顔を覆い、一人、音もなく泣き出した。
――なんで、こんな大事なことを忘れてたんだ。
忘れないからって、親友と、恩人と、大切な人たちと約束したのに。
彼らの命をこの手で奪ってまで、歩みを進めたはずなのに。
……私は最低だ、殺した親友も、恩人も師匠も、全てなかったことにして前に進んでいた。
顔を覆っていた両手を、ゆっくりと目の前にかざす。
指先が、小刻みに震えている。
その両手は、赤い血でべっとりと汚れているように見えた。
――私の手は、最初からこんなにも、血まみれだったんだ。
見えていなかった、忘れようとした私の罪の証。
――私の手を覆う血潮が、ようやく私に見えていた。
拭っても拭っても落ちない幻の血を前に、私はただ、暗い馬車の中で声を殺して泣き続けることしかできなかった。




