第41話 - α 色褪せた宝石
私が最後の一口を名残惜しく頬張っていると、ソファの方でモゾモゾと毛布が動き、ソフィがゆっくりと身を起こした。
今度こそ、ちゃんと目が覚めたようだ。
「おはようソフィ。朝ごはんできてるよ」
私が食べ終えたばかりの空のお皿を見せながら、テーブルに残っているもう一つのお皿を指さす。
ソフィは寝ぼけ眼をこすりながらテーブルへと近づき、そこに置かれた香ばしいパンと目玉焼きを見て、不思議そうに小首を傾げた。
「これは……パン、ですか?」
ソフィのその反応に、私は思わず目を瞬かせた。
「えっ、パンだよ?……これって、帝国の一般的な料理じゃないの?」
私が疑問を向けると、向かいでコーヒーを飲んでいたおじさんが、やれやれと肩をすくめた。
「皇女の感覚が一般的じゃないだけだ。皇宮の朝食なんざ、専属の料理長が手間暇かけたフルコースに決まってるだろ」
「あ……そっか。お姫様だもんね」
毒見された豪華な食事しか知らなかった彼女にとって、こういう素朴な庶民の味は見たこともない未知の食べ物なのだろう。
ソフィは小さな手でパンの上に目玉焼きを乗せ、おずおずと小さな口で齧り付いた。
瞬間、彼女の大きな瞳がパァッと輝く。
「……美味しいです!」
「でしょ!」
私が自分のことのように胸を張ると、ソフィは夢中になってパンを頬張り始めた。
そんな彼女の微笑ましい様子を見守りながら、私はふと表情を引き締め、おじさんに向き直った。
「ねえ、おじさん。……今日はどうするの?」
私の問いかけに、おじさんは手元のカップをコトンと置き、深く、重い息を吐き出した。
その顔には、先ほどまでの呆れたような表情はなく、歴戦の指揮官としての冷徹な光が宿っていた。
「……今日が一番重要だ。炎に呑まれた帝都の避難所を、ソフィ殿下に回ってもらう」
「慰問、するってこと?」
「ああ。タカ派のザロウも、ハト派のローランも消えた今、帝国の権力は完全に空白だ。ここにきて皇女が自ら市民の前に姿を見せれば、一気に支持を集め、権力を集中させて国を安定させることができる」
理路整然と語られるその戦術は、確かに今の帝国を最速で立て直すための『正解』なのだろう。
けれど。
「……おじさんが、一番嫌いそうなやり方だけど。本当に、やるの?」
私は、おじさんの目を真っ直ぐに見つめて言った。
闘技場で、誰よりも命を散らすことを嫌悪し、権力闘争に子供が巻き込まれるのを憎んでいたおじさん。
彼が、まだ小さい子供を政治の『神輿』にするようなやり方を、本心から望んでいるはずがない。
私の指摘に、おじさんは言葉を詰まらせ、膝の上で拳を強く握りしめた。
少しの躊躇いと、深い葛藤。
やがて、彼は血を吐くような重い声で、頷いた。
「……やる。今の帝国に必要なのは、最速で国をまとめて、この泥沼の戦争の『和平』を結ぶことだ、この仕事が出来るのは、……皇族しかいない」
自分が憎まれ役になろうとも、これ以上誰も死なせないための最短の地獄を選ぶ。
それが、かつて戦争を終わらせたという『英雄』の悲壮な覚悟だった。
「……あの」
重苦しい沈黙が落ちた居間に、鈴を転がすような細い声が響いた。
見れば、ソフィがパンを食べる手を止め、真っ直ぐな瞳で私たちを見つめていた。
彼女は小さな両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、震える声で、けれどはっきりと言葉を紡いだ。
「私はこの国の皇女です。帝国の為になるのなら、……私が、行きます」
大人たちの身勝手な争いに巻き込まれ、あんなに怯えていた小さな女の子が、自分の足で立ち上がり、運命に立ち向かおうとしている。
その小さな決意の音は、私の胸の奥を、熱く、強く打ち鳴らした。
「……そうか」
おじさんは短く応えると、床に置かれた二振りの剣へと視線を向けた。
「皇女は馬車に乗っけていく。小娘、お前は皇女の近くで帝剣と皇剣を掲げてろ」
「掲げる? 私が?」
「ああ。その二振りの剣は、いわば権力の象徴だ。それを持っているということは、正統な後継者であることを表してるようなもんだ」
おじさんの言葉に、私は皇剣『プロウド』と帝剣『インペル』をまじまじと見下ろした。
どちらも国宝級の立派な剣だ。豪華な装飾が施されている分、ずっしりとした重みがある。
「これ、二振りも掲げるの? 絶対一振りのほうが疲れないのに……」
私はブツブツと文句を言いながらも立ち上がり、とりあえず剣を腰のベルトに差そうとして――ハッと気づいた。
今の私は、借りたダボダボの寝間着姿だ。当然、ベルトなんてどこにもない。
「あれ? おじさん、私の服が見つからないんだけど」
私がキョロキョロと居間を見回しながら尋ねると、おじさんはやれやれと本日何度目か分からない深いため息をついた。
「……もう乾いてる。二階の廊下にあっただろうが」
「あ、そうなの? 気づかなかった!」
血と泥まみれだったはずの服を、昨日おじさんが洗って干してくれていたらしい。
私は二振りの重たい国宝を胸にがしっと抱えたまま、「着替えてくるね!」とソフィに笑いかけ、パタパタと軽い足取りで二階へと向かっていった。
二階の廊下に出ると、おじさんの言った通り、私の服が風通しの良い場所に干されていた。
手に取ってみると、相変わらず所々が破れてボロボロだ。
しっかり洗ってくれたみたいだけど、生地の奥まで染み込んだ赤黒い染みはどうしても落ち切らず、かえって血の生々しい色が濃く現れてしまっていた。
――どんだけ血を吸ってきたんだか。
苦笑しながら自分の服をまじまじと見つめる。
しかし、不思議なことに気づいた。
これだけ激しい戦闘を繰り返し、何度も泥水や血に塗れたというのに、服の作り自体はとてもしっかりしている。
指で生地を撫でてみると、驚くほど滑らかで、かなり良い素材が使われていることが素人の私にもわかる。
「頑丈に作られてるなあ……」
触りながらさらに細部を観察していると、ふと、ある部分に目が止まった。
胸元の、少し隠れた位置。
洗う前は泥と血の塊で完全に黒く塗り潰されていたそこに、鈍いがキラリと光る『宝石の輝き』があったのだ。
「……なにこれ」
目を凝らすと、その小さな宝石を中心にして、細やかな金糸で『ある紋章』が刺繍されていた。
剣と天秤が交差したような、美しくも厳格なデザイン。
それを見た途端だった。
「――ッ!?」
ズキリ、と。
脳髄を直接太い針で貫かれたような激しい頭痛が走り、私は思わずその場に蹲った。
「あ、ぐ……っ、ぁ……!」
抱えていた帝剣と皇剣が床に転がり、ガチャンと重い金属音を立てる。
視界がぐにゃりと歪み、耳の奥で、聞いたこともないはずの激しい耳鳴りが反響し始めた。




