第36話 - α お姉様の物語
「最初はね、暗くて冷たいお部屋で目が覚めたの。頭の中は、雪原みたいに真っ白で何も分からなくて」
本当はすごい不安だった、目覚めたら記憶がなくて、牢屋に入れられていたから。
私は罪人で、ここにいるのがお似合いだって、そんな風に思ったときもあった。
けどあの日、看守さんが投げてよこした古い布包み。
中に入っていた『リゼ・イレイナ』という名前と、無骨な鉄の大鎌。
あの大鎌から、『あたし』の物語が始まったんだ。
あの時、なんであんな物騒な塊があんなにも手に馴染んだんだろうと、記憶がないのに、自分の身体の一部みたいにしっくりきて、自分が少し怖かった。
「そこで、おじさんと会ったんだ。右足を引きずってて、すっごく不機嫌そうな顔をしてたよ」
――おじさんは不機嫌そうで、でもわざわざ私に、私の背中を撃って、自分も魔獣の餌食になるという安っぽい台本の上で、使い捨ての英雄として立っていた。
でも、彼の心臓からは、後悔と絶望が混ざった重い音が聴こえていた。
私は、あの音をどうしても止めたくなかった。空っぽだった私に、初めて見えた『羅針盤』だったから。
「――それで、外の広い砂場に出たら、氷を纏ったおっきな狼が襲ってきたの」
「狼、ですか……?」
「うん。でもね、全然怖くなかったよ。おじさんが後ろからドンッて銃で撃ってくれて、私が大鎌をぐるぐる回して、二人で息を合わせてやっつけたんだ」
――本当は怖かった、戦い方も分からないまま強い魔獣と戦うなんて、無理だって、怖いって震えそうだった。
咄嗟に庇った時右腕を深く噛まれて、凍りつくみたいに痛かった。――少しだけ助けなきゃよかったなんて思った私も嫌いになりそうだった。
でも、おじさんが弾切れになって、カチャッて単発銃に弾を込める音を聴いた瞬間……私の心から恐怖は完全に消え去っていた。
私がこの人を守らなきゃって。自分の命よりも、あのおじさんを守り抜くことの方が、私にとっては自然なことだった。
「――それで、その次の日は、もっと強くて、ちょっと悲しい相手と戦ったんだけどね。おじさんは私を信じて、私に守りを全部任せてくれたんだよ」
あのクローンは、大鎌を振り回すことしかできない私の、完全な私の上位互換だった。
――しくじれば二人とも肉塊になる、正気の沙汰じゃない作戦。
それでも、私が敵を抑え込んでいる間、背後から一秒間隔で正確に敵の手足を撃ち抜いてくれた。
あの時、おじさんの心臓から聴こえた『呆れたような感心』の音。あれが、たまらなく嬉しかったんだ。
「でも、そのあと、おじさんがちょっとお出かけしちゃって、私一人で闘技場に出たこともあったんだ」
「一人で、ですか……?」
「うん。狼さんたちの群れや、大きな鎧を着た騎士さんたちといっぱい鬼ごっこしてね。……その時に気づいたの。私のこの力は、誰かを傷つけるためじゃなくて、助けるためのものなんだって」
――本当は、血と泥に塗れた孤独な地獄だった。
おじさんがいない闘技場で、十数頭のウルフの群れを一人で斬り伏せた。
戦いを強要された聖国の捕虜たちを前に、殺したくないと心が悲鳴を上げた。
その極限の中で思い出した、燃えるような赤髪の女性の言葉。「貴方の棒術は、助けるためのものなの」
私はその記憶を頼りに、彼らを殺さずに無力化することに成功した。
――でも。直後に対峙した、復讐心と薬物に駆られた帝国兵。私は彼の首を、無慈悲に刈り取ってしまった。
殺さないと決めたのに、私の身体は息をするように自然に『命を刈り取る最適解』を選んだ。
私は、殺しに慣れている。
自分がどれだけ多くの血を吸ってきたのか、その過去への底知れない恐怖に、一人暗い牢屋で泣き崩れた。
「そのあと、おじさんが帰ってきてくれて。帝都で大きな騒ぎが起きたから、一緒に外へ出たの」
「……おじさんが、助けに来てくれたんですね」
「うん。道中で、さっきお話ししたマーシーさんたちとも協力して。皇子様を助けて、最後は、ソフィのいる大きなお屋敷まで走ってきたんだよ」
「……お兄様、ご無事だったのですね」
語りながら、私自身の心の中の淀みも、少しずつ透き通っていくのが分かった。
記憶のない私に溜まっていくものは、血と泥だけのもの、ただ生き残るためだけの時間だった。
でも、大鎌の重さも、おじさんの銃声も、一人で泣いた牢屋の冷たさも、看守さんがくれたパンの甘い味も。
全部、今の私が「あたし」であるための、大切な記憶の欠片なんだ。
「……それが、目覚めてから今日までの、あたしの物語」
私はゆっくりと視線を天井から下ろし、隣で熱心に耳を傾けていたソフィへと優しく微笑みかけた。
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R・D




