第33話 - α 新たな縁
私もまた、お湯の温もりに身を委ね、記憶を失ってから初めて訪れた平穏な時間に、心も体も溶けていくのを感じていた。
明日をも知れぬ闘技場での日々、そして血生臭い戦場。張り詰めていた神経が、湯気の中に霧散していく。
「……気持ちいいね」
思わず、独り言のように呟いていた。
「……はい」
あたしの腕の中で、お姫様が小さく、けれど温かい相槌を打ってくれた。
その温もりに背中を押されるように、あたしはずっと気になっていたことを口にした。
「ねえ、お姫様。……なんて呼んだらいいのかな?」
公爵の屋敷で出会ってから今まで、お姫様、皇女殿下、そうした肩書きでしか呼んでこなかった。
それで十分だったから。
けれど、こうして一つの湯船に浸かり、心を寄せ合っている今、もっと彼女個人に寄り添った名前で呼びたかった。
「……ソフィとお呼びください」
お姫様は、少し気恥ずかしそうに、けれどはっきりとした声で言った。
「ソフィ? ソフィちゃん?」
あたしが問いかけると、彼女はコクリと小さく頷いた。
「うん、ソフィ。……いい名前だね」
あたしは、愛おしさを込めてその名前を呼んだ。そして、自分もまた、彼女に名乗らなければならないと思った。
「あたしは、リゼ。……リゼだよ。よろしくね、ソフィ」
おじさん以外に、自分から名前を名乗ったのは初めてかもしれない。
「はい。よろしくお願いいたします。……リゼお姉様」
湯船の中で、あたしたちは静かに、けれど確かに、新しい絆を結んだ。
記憶のないあたしと、恐怖の中にいたソフィ。二人の間に生まれたのは、温かいお湯のような、優しい安らぎだった。
温かいお湯を十分に堪能し、私たちは湯船から上がった。
脱衣所に戻ると、着替えの棚の上に、ふかふかのタオルと一緒に見慣れない服が二着置かれていた。
……おじさんが着るものではなさそう、お客さん用の寝間着かな。
肌触りの良さそうなコットン生地のワンピースだ。
……さっき、おじさんがお風呂の準備をしてくれた時に、こっそり置いていってくれたんだ。
あの不器用でおっかないおじさんが、こんな可愛らしい寝間着をわざわざ用意してくれたことを想像すると、なんだか少し可笑しくて、同時に温かい気遣いが嬉しかった。
「ソフィ、風邪ひかないようにしっかり拭くね」
そう話すとソフィが慣れた様子で「はい……」と頷き、吹きやすいように手を水平にしてくれる。
やっぱりお姫様何だなあと感じながら、バスタオルでソフィの濡れた髪と小さな身体を優しく丁寧に拭き上げ、用意されていた寝間着を着せてあげた。
彼女には少しサイズが大きいけれど、それがかえって子供らしさを引き立てていて可愛らしい。
ソフィのお世話を終えてから、私も自分の身体を拭き、もう一着の寝間着に袖を通す。
清潔で、柔らかい布の感触。血や鉄の匂いが一切しない服を纏うのは、本当にいつ以来だろうか。
けれど――。
私は脱ぎ捨てた血まみれの服の山から、無傷だった短剣を一本だけ拾い上げた。
そして、備え付けられていた革のベルトを素肌の太ももにキツく巻き付け、そこに短剣を収めたホルスターを固定する。
ちょうど、寝間着の裾で隠れる位置だ。
ここは安全だと分かっているおじさんの家だけれど、私の身体に染み付いた闘技場での生存本能が、「完全に丸腰でいること」をどうしても許してくれなかったのだ。
……よし、準備完了。
「行こっか、ソフィ」
「はい、リゼお姉様」
私はソフィの小さな手をしっかりと握って脱衣所を出ると、廊下を抜けて、明かりの点いている居間らしき部屋へと向かった。
「おじさん、出たよ」
のんびりとした声をかけながら、居間らしき扉を開けた――その瞬間だった。
「――」
私の足が、ピタリと止まる。太ももに仕込んだ短剣の柄に、無意識に指先が動く。
ソファに深く腰掛けるおじさんの向かい。
そこには、私たちが見たこともない、見慣れない女性が一人、静かに立っていたのだ。
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