第32話 - α 湯船の中の安息
……いけない、あたしばっかり落ち着いてる場合じゃない。
この温かさと安心感を、外で待っているお姫様にも早く分けてあげないと。
私は気を取り直すと、身体にこびりついていた血と汚れを丁寧に洗い流した。
赤黒い水が透明に塗り変わるのを確認してから、備え付けられていたタオルで軽く身体の水分を拭き取る。
すっかり血の匂いが消えたのを確認して、私はガラス扉を開け、脱衣所へと戻った。
「お姫様、お待たせ――」
声をかけながら脱衣所へ出た私は、思わず目を瞬かせた。
壁際で大人しく待っていると思っていたお姫様は、自分が着ていた豪奢なドレスと格闘し、見事に布地やリボンに絡まって、身動きが取れなくなっていたのだ。
どうやら、私がシャワーを浴びている間に一人で脱ごうと頑張っていたらしいのだけど、背中の複雑な編み上げや装飾に引っかかって、頭から布を被ったような状態になっている。
「あわ、……お姫様、大丈夫?」
私が慌てて駆け寄り、そっと声をかけると。
もごもごと動いていたドレスの隙間から、涙ぐんだような、小さな女の子の顔がひょっこりと覗いた。
「…………脱がして、ください」
消え入りそうな、か細い声。
それは、彼女を助け出してから今まで、ずっと無言で怯えていたお姫様が、初めて私をしっかりと見て発してくれた言葉だった。
――ちゃんと、頼ってくれたんだ。
その事実がなんだかとても嬉しくて、私の胸の奥がじんわりと温かくなる。
血まみれの死神ではなく、一人の人として見てもらえたような気がした。
「うん、任せて!」
私は安心させるようにとびきりの笑顔を作ると、絡まってしまった複雑なドレスの紐を解き、お姫様を傷つけないようにゆっくりと、優しく脱がせてあげた。
綺麗にドレスを脱がせた後、私たちは二人でシャワー室の中へと入った。
先ほど私が自分の傷に合わせて調整した、少しぬるい温度のシャワーを、お姫様の華奢な身体にゆっくりと当ててあげる。
「熱くない?」
「……はい、大丈夫です」
小さく呟くお姫様の声を聞いて、私はホッと胸を撫で下ろした。
けれど、濡れた彼女の身体を洗ってあげようと視線を落とした瞬間、私の胸はチクリと痛んだ。
彼女の細い手首や腕には、先ほどまであのタヌキ親父――ザロウ公爵に拘束されていた時についた、きつく結ばれた紐の痕が、痛々しい赤みを帯びてくっきりと残っていたのだ。
十歳前後だろうか。
私よりだいぶ下の年齢、それぐらいのこんな小さな子にしていい仕打ちじゃない。
大人たちの汚い権力闘争に巻き込まれて、どれだけ怖い思いをしたのだろう。
私がその赤い痕をこれ以上傷つけないように、どう洗ってあげようかと思案していると、お姫様が恥ずかしそうに身をよじりながら、モジモジと口を開いた。
「あの、実は……」
深刻そうな声色で呟くお姫様、どこか痛むのかな?
「どうしたの?」
私は聞いてみた。何に困っているのか、耳を傾けたかった。
「体の洗い方、知らなくて……」
深刻そうに俯きながら呟かれた言葉に、私は思わず「……?」と首を傾げてしまった。
体の洗い方を知らない?
闘技場ですら、冷たい水を自分で被って泥を落としていたのに。
「その……いつも、使用人に洗ってもらっていたので……」
恥ずかしさで耳まで赤くしてそう答えるお姫様の言葉に、私は納得した。
――そっか。この子はお姫様なんだ。
自分で服を脱いだり、体を洗ったりする必要がないくらい、誰かに大切に世話をされて生きてきたんだ。
その事実が、彼女が背負う立場の重さと、普通の女の子とは違う生活環境を物語っていた。
「そっか。じゃあ、お姉ちゃんが洗ってあげるね」
私は柔らかく微笑むと、備え付けの石鹸を泡立てて、彼女の身体に触れた。
拘束されていた紐の痕や、傷ついているかもしれない場所を避けるように。
かつて、私が誰かに優しくしてもらった記憶を辿るようにゆっくりと、丁寧に、お姫様の小さな身体を洗ってあげた。
慎重に、宝石を傷付けないようにお姫様の体を洗い終わった頃には、湯船からお湯が溢れていた。
「……風呂にも入っておけ」
扉の向こうから、ぶっきらぼうな声が聞こえてくる。
どうやら、この湯船にお湯を注ぐように外から操作してくれてたみたい。
おじさんなりの、不器用で精一杯の優しさなんだろうな。
私は思わず笑みをこぼし、「ありがとう、おじさん」と小さな声でお礼を言った。
「お姫様、お風呂はいれる?」
お姫様の方を向き聞くと、彼女は私の目をじっと見つめ、抱っこをせがむように小さく両腕を水平に上げていた。
「……なるほど。お姉ちゃんと一緒に入ろっか」
お風呂に一緒に入りたいのか、それともお風呂もこうやってお世話されてたのかな?
どちらでもいっか、今やることは変わらないのだから。
私は彼女の小さな脇に手を差し込み、ひょいと抱き上げる。
彼女の身体は羽根のように軽く、守るべき重みとして私の胸に収まった。
「はい、お姉様……」
消え入りそうな声で呟いた彼女は、もう恥ずかしさで耳の先まで真っ赤に染まっている。
その反応がたまらなく愛おしくて、私は彼女を抱えたまま、浴室の隣にある広い浴槽へと足を踏み入れた。
ざぶり、と。
たっぷり張られたお湯が、波紋を広げる。
「うわぁ……」
お姫様が小さく声を上げる。
丁度いいお湯の熱さが、冷え切っていた二人の身体にじわりと染み渡っていく。
肩までゆっくりと浸かると、身体の芯から強張っていた筋肉が溶けていくのが分かった。
広い湯船に、二人きり。
湯気で少しだけ視界が霞む中、私はお姫様を自分の身体に寄り添わせるように抱きしめる。
……静かだ。
外の喧騒も、戦場の怒号も、何も聞こえない。
聞こえるのは、お湯が揺れる音と、お姫様の小さくて穏やかな寝息に近い呼吸音だけ。
記憶を失ってからの私は、明日生きられるかどうかも分からない恐怖の中で、ずっと泥の中を走っているような気分だった。
でも、今、この温かさの中にいると、ようやく自分が「生きている」んだって、初めて実感できる気がする。
「お姉様……」
お姉様……、素敵な響きだけど、あたしには重すぎるかも知れないかな?
「どうしたの?」
私が聞くと、お姫様が私の胸元に顔を寄せて、小さな声で呼びかける。
「……ありがとうございます。私、死んじゃうと思ってたから」
その言葉を聞いて、私は思わず彼女の濡れた髪を優しく撫でた。
「大丈夫、大丈夫だよ」
……お姫様として暮らしていた子が、ある日いきなり死と隣り合わせになる恐怖は、計り知れない。
私は努めて安心させるようにふんわりと、頭を撫でた。
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R・D




