第31話 - α 英雄の家と、日常の記憶
夜の帝都の裏通りをおじさんを先頭に、警戒しながら進む、撤退中に襲われるのが一番危ない、特に脇道には要注意だ。
そのまま少し歩き、ひっそりとした一軒家の前で、おじさんは足を止めた。
「ここが、おじさんの……」
おじさんは重厚な木の扉の鍵を開け、私たちを中に招き入れる。
中に入って扉を閉めた瞬間、外の喧騒が嘘のように遮断され、静寂が降りてきた。
ようやく安全な場所まで逃げ切れたのだ。
「ふぅ……」
私は小さく息を吐き出し、胸の中でギュッと目を閉じていたお姫様を、目にとまったソファへと優しく下ろした。
お姫様はまだ小さく震えているけれど、ひとまずは怪我もないようで安心する。
改めて、家の中を見渡してみる。
おじさんの家、造りはとても立派で広い。
けれど……家具にはうっすらと埃がかぶり、生活の匂いが全くしない。
まるで時間が止まっているかのような、どこかひどく寂しい家だった。
「……ここが、おじさんの家」
私が思わずそう呟くと、おじさんは手にした杖を壁際に立てかけながら、フッと短く鼻を鳴らした。
「……まあな。もっとも、家にはほとんどいないがな」
自嘲するように短く吐き捨てたその声には、触れてはいけない過去の痛みが滲んでいるように聞こえた。
私がどう言葉を返すべきか迷っていると、おじさんは私を上から下までジロジロと見て、話を逸らすように口を開いた。
「ひとまず、お前は皇女を連れてシャワーを浴びてこい。お前達、特に小娘、お前は血に塗れてすごいことになってるからな」
「えっ?」
言われて自分の身体を見下ろす。
服も、腕も、足も。
庭の兵士たちや騎士を斬り捨てたときの返り血で、私の身体は赤黒く染まり、目を閉じてよーく鼻を利かせると、鉄錆のような匂いがした。
闘技場ではこれが当たり前だったから、すっかり麻痺していたみたいだ。
「シャワー……」
私はその言葉を口の中で転がした。
温かいお湯が降り注ぐ、身体を清潔にするための設備。
……そうだ、そんなものがあったな。
闘技場の冷たい水浴びとは違う、ちゃんとした『日常』の記憶が、頭の片隅からぼんやりと引き出される。
「……わかったよ」
私は、おじさんの抱える寂しさをこれ以上深く聞くことはやめて、大人しく頷いた。
「お姫様、シャワー浴びに行こう……?」
腰に提げていた皇剣と帝剣をテーブルの上に静かに置き、私はおじさんに教えられた通り、廊下の奥にあるシャワー室へと向かって歩き出した。
私はお姫様を連れて中に入り、扉を閉める。
「……」
無言のまま、血を吸って重くなった服を一枚ずつ剥がしていく。
鏡に映った自分の身体には、戦闘でいつの間にかできた大小の生傷がいくつも刻まれていた。
痛覚は麻痺しているのか、それとも興奮が冷めきっていないのか、不思議と痛みは感じない。
……体、雑に使っちゃってるな。
私は鏡に映る自分の傷だらけの身体を、どこか他人事のように眺めながら、汚れた服を床の隅へと脱ぎ捨てた。
「お姫様、服脱げる?」
私が振り返って尋ねると、壁際で小さくなっていたお姫様は、コクコクと無言で頷いた。
けれど、私には分かってしまった。
彼女の小さな身体から、微かに震えるような『怯えの音』が聞こえてきたからだ。
――ああ、そうか。
私は、自分の配慮の足りなさに気づいて小さく息を飲んだ。
助けたとはいえ、私は全身血塗れの、名前も素性も分からない女だ。
ほんの少し前まで、彼女の目の前で何人もの命を容赦なく奪ってきた『死神』そのもの。
そんな血みどろの人間と、こんな狭い部屋で二人きりにされて、服を脱ぐように言われているのだ。
……怖い思い、させてるな。
頭が回っていない自分が情けない。
「……ごめんね」
私は、なるべく彼女を刺激しないように少しだけ距離を取り、柔らかく微笑んだ。
「私の血だけ、先に落とさせてもらうね……、少しだけ、待っててくれる?」
それだけ言い残し、私はお姫様を脱衣所に残したまま、先に浴室のガラス扉を開けて中へと入っていった。
浴室に入り、壁に備え付けられた金属の蛇口をひねる。
そのシャワーはお湯と水を別々のバルブで出して、自分で混ぜながら温度を調整する古いタイプのシャワーだった。
「あちちっ!」
いきなり熱いお湯が出て、私は思わず身をすくめる。
慌てて水の蛇口をひねって温度を下げようとしたが、身体に降り注ぐお湯の感触に、ピリッとした鋭い刺激が混ざっていた。
……違う。熱いんじゃない。傷に当たって、痛いんだ。
闘技場で作った無数の生傷と、今日の激戦で新しく刻まれた切り傷。
そこに温かいお湯が染み込んで、痛覚と温度の感覚がごちゃ混ぜになり、熱さと痛みの区別が曖昧になってしまっていた。
私は、ヒリヒリと悲鳴を上げる自分の身体と対話するように、二つの蛇口を慎重に微調整していく。
やがて、少しぬるいぐらいの、傷に染みない優しい温度のお湯が降り注いできた。
「……はぁぁ……」
頭からそのぬるま湯を被り、目を閉じる。
身体にこびりついていた赤黒い血と泥が、足元の排水溝へとゆっくりと吸い込まれていくのを見つめた。
……お湯って不思議だなぁ。浴びているだけなのに、なんでこんなに落ち着くんだろう。
ここのシャワーは、闘技場の容赦ない冷たい水浴びとも違う。
血の匂いと鉄の音が支配する、戦場とも違う。
ただ、ポロポロとお湯が床を叩く音だけが響く、温かくて静かな空間。
記憶を失って――何も分からないまま大鎌を握って今日まで、生き残るために、ただひたすらに命を削り続けて、細い道を走ってる気分だった。
その、極限まで張り詰めていた心の糸が、お湯の温もりと共に、少しずつ、少しずつ解けていくのを感じる。
――それは、『あたし』が記憶を失ってから初めて手に入れたもの、心から『ホッとする』時間だった。
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R・D




