第3話 - α 最後の晩餐と鮮血の死神
微睡みの淵から意識が浮上すると、まず鼻を突いたのは地下牢特有のカビと土の匂いだった。
ゆっくりと目を開ける。
薄暗い天井を見つめながら、私は自分の身体に起きている『ある変化』に気がついた。
「……あれ?」
昨日まで氷の塊のように重く、感覚が抜け落ちていた右腕。
そこから、ドクドクと温かい血が巡る音が聞こえる。
まだジンジンとした痛みは残っているものの、指先を動かすと、確かな感覚が脳へと伝わってきた。
……もしかしてあたし、寝ている間に『治癒魔法』に目覚めちゃったりして!?
記憶を失った凄腕の少女が、土壇場で伝説の魔法に覚醒する――。
なんだか劇的な物語の主人公になったみたいで、ちょっとだけ胸が高鳴る。
いやいや、ないない。そんな都合のいい展開、あるわけないか。
すぐに自分で荒唐無稽な妄想を打ち消し、私は起き上がった。
調子に乗って、壁に立てかけてあった漆黒の大鎌の柄を右腕だけで握り、持ち上げようと力を込める。
――ピクリとも動かなかった。
「……うぅ、やっぱダメかぁ」
少しだけ落ち込みながら右手をぶらぶらさせていると、隣で布擦れの音がした。
「……おい小娘。右腕はどうだ」
いつの間にか起きていたおじさんが、壁に背を預けたまま、探るような低い声で尋ねてきた。
「おじさん、おはよう! まだ鎌を持つことはできないけど、すっごく楽になったし、感覚も戻ってたよ! ……もしかしてあたし、天才的な治癒魔法を持ってるのかも!」
「……馬鹿を言え。治癒魔法なんて高等技術が、その辺に転がっててたまるか」
おじさんは呆れたように鼻を鳴らし、吐き捨てるようにそう言った。
けれど、私の耳にはちゃんと聴こえていた。彼がそう言いながらも、心臓から微かに『ホッとしたような、柔らかい安堵の音』を響かせたのを。
本当に、おじさんは素直じゃないなぁ。
「――お前ら、起きてるか」
鉄格子越しに声をかけてきたのは、昨日私の靴を縫ってくれた看守さんだった。
彼の手には、見慣れない木のお盆が乗せられている。
「出番は昼からだ。……探りを入れてみたが、今日の相手、聖国の『禁忌』とやらが何なのかはサッパリ分からなかった。タカ派の連中、相当厳重に情報を統制してやがる」
「わぁっ! 看守さん、これ……今日の朝ごはん!?」
私は鉄格子に駆け寄り、お盆の上を見て目を輝かせた。
そこにあったのは、カビの生えていないどころか、ほんのり甘い匂いのするフワフワのパン。
粗悪ではあるもののクリームまで添えられていて、カップには泥水じゃない、透き通った綺麗な水がなみなみと注がれていた。
この地下牢では、絶対に見ることのない最上級の食事だ。
「今日はすっごい豪華な食事だね! 嬉しいなあ、えへへ、看守さんありがとう!」
「あ、いや……それは、だな……」
無邪気に笑って受け取ろうとする私から目を逸らし、看守さんが気まずそうに言い淀む。
すると、背後から近づいてきたおじさんが、私を遮るようにお盆をスッと受け取った。
「……『最後の晩餐』ってところか? お前、自腹で買ってきたな。こんな小娘に、情でも湧いたか」
おじさんの素っ気ない、けれど核心を突く言葉に、看守さんは痛いところを突かれたように顔をしかめた。
「……そういうことだ。外の連中はもう、闘技場の砂が『聖国からの刺客』の血で赤く染まるのを、今か今かとヨダレを垂らして待ち望んでる。……せめて、腹くらいは満たしてやろうと思ってな」
看守さんの胸の奥から、ギリッと悔しそうに軋む音がした。
自分が助けられないことへの無力感。それが、この豪華な朝ごはんの正体。
「そっかぁ。外の人たち、あたしのこと嫌いなんだね」
私はパンを手に取り、少しだけ首を傾げてから、満面の笑みで看守さんを見上げた。
「でも、看守さんが優しい人だって分かったから、あたしは嬉しいよ。……ありがとう! いただきまーす!」
「お、おう……」
私が美味しそうにクリームつきのパンを頬張るのを見て、看守さんは毒気を抜かれたように立ち尽くしていた。
おじさんも無言でパンを千切り、透き通った水を喉に流し込む。
美味しいご飯と、優しい不協和音。
昼から死ぬかもしれないのに、私の心は不思議なくらい、穏やかなリズムを刻んでいた。
――食後。
看守さんが空になった食器を下げていった後、私はおじさんが念入りに腰のベルトを弄っているのに気がついた。
「ねえ、おじさん。今日はなんだか、ベルトに沢山の弾を巻いてるね? 昨日使っていたのとは違う弾みたいだけど」
私がそう尋ねると、おじさんはコンテンダーの冷たい銃身を撫でながら、ニヤリと……普段の彼からは想像できないくらい、少しだけ悪そうに微笑んだ。
「ああ。こいつはとっておきだ」
低く凄みのある声でそれだけ言うと、おじさんは懐から二つの小さな塊を取り出し、私の方へ無造作に放り投げた。
左手でパシッとキャッチして手のひらを開くと、そこには液体の入った小さなボトルと、黒い革の片手袋が乗っていた。
「おじさん、これ……?」
「外にいる、お前の数少ない『ファン』からのプレゼントだ」
「えっ、あたしのファン!?」
外の人たちはみんな、あたしのことが嫌いなんだと思ってたから、思わず声が上ずってしまった。
おじさんは短く鼻を鳴らして続ける。
「そのボトルはシリコンオイルだ。大鎌の柄に塗り込んでおけ。背中や肩を滑らせる時のいい潤滑剤になる。……だが、それだけだとお前自身の左手も滑るだろう。そのグローブは、左手で柄を殺すほど強くグリップするためのものだ」
なるほど! と私はポンと手を打った。
いくら滑りを良くしても、要となる私の左手まで滑ってしまったら、重い大鎌を遠心力で回すことなんてできない。
でも、この滑り止めのグローブがあれば、支点をしっかり固定したまま、オイルでツルツルになった柄を身体の周りで滑らせることができるんだ!
「……左手一本でその馬鹿げた鎌を扱えるように、出番までにきっちり調整しておけよ、小娘」
「うんっ! ファン第一号さんのためにも、最高の音、鳴らさなきゃね!」
私はさっそく、左手に黒いグローブをはめ込んだ。
ギュッと拳を握り込むと、新しくて硬い革が「ギチッ」と心地よい音を鳴らす。
少し力を抜けば、グリップ力が消え、柄を滑らすように持ち替えられる。
右腕は動かない。敵の正体もわからない。
それでも、私にはこの大鎌と、頼もしいおじさんと、姿の見えない誰かからの『プレゼント』がある。
私は左手一本で漆黒の大鎌を引き寄せると、昼の死闘へ向けて、静かに刃のチューニングを始めた。
そして、運命の昼がやってきた。
ゲートが開き、太陽の光が網膜を焼く。
私たちを迎え入れたのは、耳を劈くような歓声という名の暴力的なノイズだった。
『――さあ、刮目せよ!本日のメインイベントだぁ!昨日の死闘を乗り越えた帝国の英雄と聖国からの刺客!今日対するは、聖国より鹵獲せし最強の『禁忌』!かつて帝国軍を震え上がらせた、あの死神が今、砂の上で蘇る!!』
実況の声が響き渡る中、対面の巨大な鉄門が、重く引き摺るような音を立てて開いた。
砂塵の向こうから現れたのは、巨大な魔獣じゃない。
漆黒のボロを纏い、身の丈ほどもある大鎌を杖のように突いた、一人の「少女」だった。
「おじさん……。あの人、あたしと似てる。……ううん、あたしの『中』にいる誰かと、すごく似た音がする……」
私は小さく息を呑んだ。
『――聖国の『禁忌』!おぞましき業!奴らは命の理ことわりを外れ、禁断の技術「人体生成」へと手を染めた!見よ!我が帝国の英霊たちを屠ったあの悪夢を!醜い人形として再構成を!』
実況の声が、熱狂する闘技場にさらに油を注ぐように響き渡る。
観客席から、怒号と歓声が入り混じった異様なうねりが巻き起こる。
それはまるで、闘技場という巨大な化け物が唸り声を上げているかのようだった。
『己の命を代償に数多の英霊を殺し回った凶星! 今なお語り継がれる「鮮血の死神」のクローン!!注目だ!!帝国の英雄が聖国からの刺客とタッグを組んで、いかにして深紅の悪夢を晴らすのか!?』
赤の死神。クローン。
実況の吐き出した言葉が、私の耳に冷たいノイズとなって突き刺さる。
燃えるような紅い髪。感情を削ぎ落とした、硝子玉のような瞳。
彼女から発せられる音は、ひどく歪で、機械的で……命の温もりが全く感じられない『死人のリズム』だった。
「……おじさん?」
隣に立つおじさんから、今まで聞いたこともないような、恐怖と殺意が入り混じった激しい重低音が鳴り響いている。
「|……鮮血の……死神……《ブラッディ・アリア》!」
―――カチャ。
おじさんは、震える手で単発銃の撃鉄を叩き壊さんばかりの力で起こし、大鎌を持つ不気味な少女に銃口を向ける。
彼がどれほどの地獄を思い出し、どれほどの怒りに震えているか。
その音が、痛いほど私に伝わってくる。
「――ギギッ……」
対面に立つ『それ』が、首をカクリと不自然な角度に曲げた。
関節が動くたびに、生き物とは思えない硬質な異音が響く。
――――ズドンッ!
おじさんの単発銃から、悲壮な感情を乗せた轟音が響いた。
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R・D




