第2話 - α 泥水の祝杯と、左手の舞
静寂は、ほんの一瞬だった。
氷牙ウルフの巨体が砂の上に沈み、私が大鎌から手を離した直後。
『――ぉ、おおおおおおおおおッ!!』
闘技場を揺らしたのは、死を求める悪意じゃない、死闘を制した者に対する、純粋で暴力的なまでの『熱狂』だった。
「……立て、小娘」
耳鳴りと歓声の波に呑まれそうになっていた私の右腕を、おじさんが強引に引いた。
痛みに顔をしかめると、おじさんは短く舌打ちをして、私の前に背中を向けるようにして立つ。
「歩け。観客の気が変わらんうちに、とっとと引き上げるぞ。……ここの闘技場は『アンコール』がたまにあるからな。
それにしてもタカ派の連中、俺が脚本に従わなかったお陰で、今頃特等席で泡を吹いて倒れてるだろうな」
おじさんの言っていることは難しいな。
「あはは……。よくわからないけど……、うん、おじさんの言う通りにする」
ゲートが閉まり、私たちは再び暗く湿った地下通路へと戻った。
陽光が遮断された瞬間、張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れ、右腕からドクドクと警鐘のような痛みの音が鳴り響き始めた。
「……ッ、つ、めた……っ」
アドレナリンが切れた途端、右腕が重い氷の塊に変わったような錯覚に襲われた。
氷牙ウルフの牙が触れた場所から、心臓に向けて刺すような冷気が這い上がってくる。
傷口は赤く腫れるどころか、不気味なほど白く凍りついていた。
「……全治一ヶ月、と言いたいところだが。この凍傷の浸食を止めなきゃ、明日には肩まで腐り落ちるぞ」
おじさんは、厳しい手つきで私の腕を掴んだ。
薄暗い地下牢。私の叫び声が、石壁に虚しく反響する。
「ちょっ!おじさん!痛い!いたいって!」
「黙れ。氷を溶かさねば神経が死ぬ。耐えろ、小娘」
おじさんは、どこからか取り出した強い酒を私の傷口にドボドボと浴びせかけ、火で炙った布を力任せに押し当てた。
「……痛ッ! いだいだいだいッ! おじさん、もうちょっと優しくしてぇ!」
床に座り込んだ私の叫び声が、冷たい地下牢に響き渡る。
「黙ってろ。さっき『痛ったーくない!』と笑っていた威勢はどうした」
「あ、あれは、戦いの音で耳が塞がってただけで! 今はすっごく痛い!」
おじさんの指は硝煙の匂いがして、驚くほど熱かった。
「……ぅ、うぅ……。おじさん、……ありがと」
彼は私の動かなくなった右腕を、感覚を殺すように白い布で固く固定していった。
「……これで明日はお前の勝ちだ。……棺桶の中でな」
「あはは、不吉なこと言わないでよ」
私は、感覚を失った右腕を他人事のように眺めた。
そして、左手だけで漆黒の大鎌を引き寄せ、ふらつく足取りで立ち上がる。
「でも全治一ヶ月かぁ、……何回か戦うことになりそうだし、どうしようかなー、おじさん、なにかいいアイデアある?」
「俺が知るか、……大鎌を片手で振るうのは現実的じゃないな、お前の武芸の基本は棒術にルーツがありそうだしな、……何かナイフか何か、他に使えそうな武器が……、おい聞いてるのか?小娘」
右腕は動かない、この状態で闘技場に放り込まれたら死ぬだけだ。
……いやだなあ、痛いのは嫌だし、死にたくない。
なら、やるべきことを――私は左手一本で柄を掴み、背骨を軸にして鋭く身体を捻った。
「おい、やめろ。重さで左肩まで壊す気か!」
――ブォンッ!!
重厚な鉄の塊が、空気を重く掻き回す低音を奏でる。
腕の力じゃない。
回転の連動を、左手という「添え木」を介して鎌へと伝える。
さらに身体を反転させ、大鎌の柄を首の後ろに滑らせる。
重力に逆らわず、自重で落ちる鎌の刃を、左手でわずかに軌道を修正する。
そのまま脇の下を潜らせ、反対側へと鋭く突き出した。
大鎌は漆黒の円を描き、ピタリと鎌の石突を、石床の上に叩きつける。
―――ガコンッ
「右が動かないなら、左で回せばいいだけかな…。……ほら、こっちの方が『いい音』がするよ、おじさん」
おじさんの瞳に戦慄の色が走った気がする、それとの動揺の音も響いてる。
「――おい。生き残り。興行主からの『ご祝儀』だ」
戻ってきた看守さんが、いつもよりは少しマシなパンと水筒を牢に放り込んだ。
私は左手だけで器用にパンを割ると、おじさんの膝の上に一つを放り投げ、鉄のカップに水を注ぐ。
「さあおじさん、祝杯をあげよっ!」
「……祝杯だと? 泥水のような水と、この程度のパンでか」
「いいの! 生きてここに戻ってこれたんだもん。あたしたちの勝利と、明日の幸運に――かんぱーい!」
私は、おじさんが持っていたカップの縁に、自分のカップを「チリン」と軽い音を立ててぶつけた。
おじさんは一瞬、毒気を抜かれたように目を見開いたけれど、やがて諦めたように小さく息を吐き、重たい腕を上げた。
怪我の痛みも、明日の不安も、今だけはこの「祝杯」のリズムで掻き消して。
私の笑い声とおじさんの溜息が、暗い石壁に響いた。
看守さんを見ると、1枚の羊皮紙を懐から取り出し確認している、何かの指示書かな?看守さんからも動揺の音が響いてる気がする。
「――おい嘘だろ!?二人とも、浮かれるのはその辺にしておけ」
顔面が蒼白に染まった看守さんが、一枚の羊皮紙を牢の中に放り込んだ。
「明日のメインイベントが早くも決まってやがる。相手は今日のウルフなんかじゃねえ。……聖国との戦争で鹵獲した、聖国が開発した『禁忌』……という筋書きだそうだ」
羊皮紙を見たおじさんの瞳に、冷酷な闘志が宿る。
明日、私たちはさらに深い絶望の淵に立たされる。
……明日かあ、この状態で戦うことになるなんて、考えたくないなあ。
私は努めて明るい声で、笑顔で話す。
「おじさん。明日も、あたしがおじさん、守ってあげる」
「……小娘、はぁ、……何も言わん」
地下牢に響く、二人の不規則な心音。
おじさんと看守さんの動揺の音が共鳴して、不協和音として私の耳に入ってくる。
……怖い、……怖いよ、この音を聴いていると、不安に心を侵食される、そんな感覚に陥る。
不協和音は重なり合い、明日の死闘へ向けた静かな序曲へと変わっていった。
「ねえ、おじさん。聖国の『禁忌』ってなんだろうね? すっごくおっきい魔獣かな?」
私は、その不協和音をかき消すように、おじさんに『禁忌』の話を聞いてみることにした。
「……お前、自分の置かれている状況が分かっているのか?」
首を傾けて笑う私を見て、おじさんは心底呆れたように深い溜息を吐いた。
「正体は分からんが、碌なもんじゃないのは確かだ。それに、聖国から鹵獲したというのも眉唾物だ。タカ派の連中が観客を煽るために用意した、ただの安い台本の可能性が高い、帝国が作った禁忌の可能性もあるからな……」
「ふーん、そっかあ。おじさん、難しいこといっぱい知ってるんだね」
私はニコニコと相槌を打ちながら、ゆっくりと石の壁に背中を預けた。
痛みを誤魔化すために無理やり上げたテンションが、少しずつ剥がれ落ちていくのが分かる。
「……なんだか、ひとしきり話したら、すっごく眠くなってきたなあ……」
「おい。痛むなら酒を――」
「……だいじょうぶ。ちょっとだけ、寝るね。おやすみなさい、おじさん……」
氷のように冷たい右腕を抱え込みながら、私は目を閉じた。
……怖い。……痛い。……寒い。
明日のことなんて考えたくない。
震えそうになる心を無理やり沈めると、すぐに深い眠りの闇が私を包み込んでいった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
もし少しでも「面白い」「続きが気になる」「この先の展開に期待したい!」と思っていただけましたら、
ページ下部にある【ブックマーク】や、【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援していただけると、毎日の執筆の大きな励みになります!
これからもよろしくお願いいたします!
R・D




