第1話 - α 空白の少女
地鳴りのような歓声が、厚い石造りの天井を抜けて、地下牢の湿った空気を震わせている。
「……それで? 記憶は、まだ戻らないのか?」
鉄格子越しに投げかけられた声に、私は膝を抱えたまま顔を上げた。
「うーん、さっぱり。あたしの頭の中、今は雪原みたいに真っ白だよ」
私は、後ろに髪をまとめながら、屈託のない笑みを浮かべていた。
自分の名前も、ここに来るまでの経緯も、何も思い出せない。
けれど、この看守さんの心臓が刻む音だけは、昨日より少しだけ疾いリズムで響いているのを、私の耳は聞き逃さなかった。
「……能天気なこった。外じゃあ、お前は立派な『聖国からの刺客』様だぞ。タカ派の議員連中が、ボロボロの帝国を盛り上げるために用意した、とびきり安っぽい台本の上でな」
看守さんが鍵を開け、無造作に足元へ膝をつく。
私の靴は、底が抜けかけ、指先が覗くほどボロボロに擦り切れていた。
「そんな足じゃ、砂の上で滑って終わりだ。コケたら死ぬんだからな、この場所は。……しゃあねえな、ちょっと貸せ」
彼は懐から取り出した革切れと太い針で、不器用ながらも手際よく私の靴を補修し始める。
「看守さん、意外と器用なんだね。……ありがと。なんだか、その音、あったかいな」
「……黙ってろ。それと、これを持っていけ。お前の荷物の中に突っ込まれてたもんだ」
看守さんが立ち上がり、壁に立てかけてあった古い布包みを放り投げた。
「『リゼ・イレイナ』。……たぶん、それがお前の名だ」
リゼ・イレイナ。
その響きが耳を通った瞬間、胸の奥で、小さな氷がパキリと割れるような音がした。
「リゼ……。うん、いい名前だね。気に入っちゃった!」
Rize Elainaと刻印された布を剥ぐと、中から現れたのは、装飾も何もない、無骨な鉄の大鎌だった。
「これは?」
看守さんに聞くと、意外な答えが返ってきた。
「お前が売られてきた時に渡された荷物らしい、多分お前の武器なんだろ」
「……これが、あたしの?」
大鎌の柄を握ると、ひんやりとした感覚が掌に吸い付く。
……怖い。なんで、こんな物騒なものが、こんなに手に馴染むの?
記憶にない「自分」の一部が、この冷たい鉄の塊に宿っているような気がして、背筋に冷たいものが走った。
私はその感覚を振り払うように大鎌を振ってみる。
……怖いぐらいに、しっくりくる。
「リゼだか何だか知らんが。浮かれるなよ、小娘」
その時、牢の奥、闇に沈んでいた影がゆっくりと立ち上がった。
木の杖を突き、右足を引きずるようにして歩く男の人。
その手には、およそこの時代の最新兵器とはかけ離れた、一発装填式の単発銃。
「お前は聖国の『刺客』として殺され、俺は帝国の『英雄』として、お前に背中を刺されて死ぬ。……それが、この興行の筋書きだ」
彼の言葉には、焦げ付いた硝煙の匂いと、冷めた絶望が混ざっていた。
「ええっ、おじさん死んじゃうの? そんなの、あたしが聴きたい音じゃないかな」
「……バカを言え。俺は、聖国との戦争を生き抜いた男だぞ。死ぬのは、俺たちの『死』を娯楽にしようって連中の期待の方だ」
看守さんが牢を開き、私たちを先導するように歩き出す。
長い、暗い地下通路。
一歩進むごとに、頭上から降り注ぐ憎悪の混じった歓声が大きくなっていく。
心臓が嫌な音を立てる。
「死ぬなよリゼ、……簡単に死なれちゃ目覚めが悪いからな」
「……うん」
ゲートが上がり、目に刺さるような陽光が私を照らした。
『――さあ、刮目せよ! 帝国の同胞諸君! 本日のメインイベントは、まさに絶望と栄光の交錯! 聖国から送り込まれた死の刺客、リゼ・イレイナ! そして、我が帝国の生ける伝説、戦争を終わらせた英雄!リード・ギリアムだ!!』
数万人の「嘘の熱狂」が、地鳴りとなって足元を揺らす。
私は、隣で杖を突くおじさん――リードさんを見上げた。
「……リード・ギリアム。それが、おじさんの名前?」
私が問いかけると、彼は面倒そうに鼻を鳴らした。
杖を握るその手は、かつて英雄と呼ばれた栄光なんて微塵も感じさせないほど、無骨で、硝煙の匂いに染まっている。
「……安っぽい名前で呼ぶな。今の俺は、タカ派の連中がハト派を黙らせるために用意した、ただの『使い捨ての英雄』だ」
リードさんは左手で短機関銃を無造作に構えた。
右足を引きずり、杖が石畳を叩く「コツン」という乾いた音。
その音の裏側で、彼が抱える深い後悔と、戦争での消えない傷跡が、鈍く、重く響いているのを私は感じていた。
「でも、おじさんの銃、すごく大事にされてる音がするよ。……あたしも、この大鎌に恥じないように踊らなきゃね」
「……フン、口の減らない小娘だ。行くぞ、邪魔はするな、……それ以上は何も望まん」
「了解、リードおじさん! あたし、転ばないように頑張るよ。……さあ、いこう?」
ゲートが完全に上がり、目に刺さるような陽光が私を照らした。
闘技場の砂の上には、冷気を纏った巨大な影――氷牙ウルフが、餓えた瞳でこちらを睨みつけている。
『対するは!死の雪原の食物連鎖の頂点!その足は疾風のごとく速く!その牙は傷付けた物を凍らせる!『氷牙ウルフ』だ!さあ!帝国の慈悲を見よ! 聖国からの刺客に情けのタッグを許し、この雪原の覇者に挑ませる! 絶望の淵で、真の英雄の力を見せてやれ!!』
「……小娘、下がってろ。一撃で終わらせる」
隣で杖を突くおじさんが、単発銃を構える。
狙いは完璧。ウルフが跳躍する寸前、彼は引き金を引いた。
――ズドン!!
空気を震わせる重低音。
弾丸は真っ直ぐにウルフの眉間を捉えた――はずだった。
キンッ!!
「……なっ!? 弾かれただと!?」
おじさんの驚愕の声。
ウルフの額にびっしりと生え揃った氷の毛皮が、鋼鉄の弾丸を無造作に弾き飛ばしたのだ。
「ガルルッ!!」
怒り狂った獣が、弾丸よりも速い速度で突っ込んでくる。
「おじさん、危ないっ!」
私は反射的に前に出た。手にした大鎌を振りかぶり、ウルフの首筋を目掛けて刃を叩きつける。
ガギィッ!!
「嘘……っ、刃が通らない!?」
氷の鎧は想像以上に硬い。
大鎌の刃は深く食い込むどころか、表面を滑って弾かれてしまう。
無理に力を込めたせいで、私の手首に痺れるような衝撃が走った。
……あはは、……あたし、この武器の使い方も知らないみたい。
目の前には、巨大な牙。
――『音を、聴いて』
脳裏に、誰かの声が響いた。
私の身体が、思考を追い越して動き出す。
逆さ。
刃ではなく、柄を。
切るのではなく、突く。
「そこっ!!」
ウルフが噛みつこうと顎を開いたその瞬間、私は刃と逆側の先端、大鎌の石突を、その喉奥へと真っ直ぐに突き立てた。
ドゴォッ!!
衝撃波が砂を巻き上げる。
「ギャウンッ!?」
巨体が、まるで羽毛のように宙へと跳ね上がる。
「おじさん、口ッ!」
「……フンッ!」
おじさんが杖を突き、装填された単発銃を構える。
――ズドン!!
腹に響く重低音。
宙に浮くウルフの喉を、一発の弾丸が正確に撃ち抜いた。
歓声が静寂に変わる。
けれど、私の耳は別の『殺意』を捉えていた。
ゲートの影から、1体目よりも遥かに巨大で速い、2体目のウルフがおじさんの死角へ躍り出る。
―――2体目!?
「おじさんッ!!」
おじさんが振り向くより速く、私は彼の身体に体当りをした。
――ガァッ!!
鋭い牙が、私の右腕に深く食い込む。
熱い! 痛すぎる!
視界が痛みでチカチカする中で、体当たりされたおじさんが、杖を砂に突っ張らせながらも大きく体勢を崩し、闘技場の石壁に背中を激しく打ち付けるのが見えた。
「小娘、腕を引け!!」
壁にもたれかかったまま、おじさんが左手の短機関銃を乱射し、ウルフを牽制する。
その狙いはびっくりするほど正確で、私にはギリギリ当たらない。
私は右腕の傷を強く抱え、痛みを押し殺して笑ってみせた。
「痛ったー!っくないッ!」
私は再び大鎌を構え、ウルフの猛攻を紙一重でかわす。
――ガシャァッ!
私の背後で、重い金属が砂の上に落ちる音がした。
おじさんが、弾切れになった短機関銃を迷わず投げ捨てたのだ。
――――カチャッ
そして、それに続く、静かで、冷徹な金属音。
懐から引き抜いた単発銃の中折れ式の銃身を開き、新しい一発を装填する、その音。
それは、おじさんが完全に無防備になる、致命的な数秒間を告げる音でもあった。
……あたしがおじさんを守る! 一秒も、近づけさせない!
腕の傷が焼けるように痛む。
でも、おじさんのリロードの音を聴いた瞬間、私の心から恐怖の音は消えていた。
私は大鎌を棒術のように振るい、おじさんへ向かおうとするウルフの鼻先を、柄で、石突で、何度も叩き伏せた。
「……小娘!左だッ! 」
装填完了を告げる、撃鉄を起こす硬い音と共に、おじさんの叫びが響いた。
おじさんの叫びと同時に、迷わず私は左へ跳躍した。
―――ズドン!!
装填を終えたおじさんの単発銃がウルフを射抜く。
致命傷にはならないが、氷牙ウルフが体勢を崩した。
「ウルフさんっ!足元に……注意ッ!!」
私は着地と同時に、大鎌の石突を砂の上に叩きつけた。
砂が爆発し、突進してくるウルフの足元が完全に崩れる。
「……これで、終わり!」
私は石突を軸にして、全身のバネを使い大鎌を旋回させた。
力で切るんじゃなくて、旋回の速度を乗せて滑らせるように刈る。
漆黒の刃が砂塵を切り裂き、仰け反ったウルフの首を、鮮やかに捉える。
歓声。鉄の音。銃声の残響。
そして、私の腕から流れる、熱い血の音。
記憶はない。けれど、この手応えだけが、今の私の「真実」だった。
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R・D




