第114話 - γ 戻らない小娘
翌朝。
アッシュクロフトの最上階で、俺は盛大な欠伸を噛み殺しながら、隣の寝室の扉の前に立っていた。
「おい小娘、朝だぞ。そろそろ起きろ」
全く困ったやつだ、昨日は結局夜遅くまでガッツリ食べてたんだろう。
あの酒場は上手い料理が沢山ある、食いまくってるあの小娘の姿が容易に想像できる。
コンコン、とノックをしても返事はない。
昨晩はあのままふらりと酒場へ出かけたきりだったが、どうせ適当に腹を満たして、夜更けにはこっそり帰ってきて寝ているのだろう。
俺は全く心配をしていなかった。
あの小娘の武術は一流だ、その辺のチンピラに絡まれても相手が気の毒な状態になるだけだろう。
その上皇剣を持たせてある、皇剣は帝国全土で有名な国宝だ。
一目見ただけでそれが本物だと分かる煌めきも秘めている。
そんな物を帯剣している、いかにも皇族に関係しているであろう人物に手を出すバカはいないだろうと。
そう高を括っていた俺は、ため息をつきながらノブを回し、ガチャリと扉を開けた。
「おい、いつまで寝て……」
しかし、言葉は途中でピタリと止まった。
綺麗に整えられたままのベッド。
シーツには皺一つなく、部屋の空気は昨日の昼間から全く動いた形跡がない。
――いない。
あの小娘が、帰ってきていない。
「……おいっ!」
嫌な汗が一気に噴き出すのを感じながら、俺はリビングへと取って返し、テーブルの上のベルを乱暴に何度も鳴らした。
喧しい音が響いた直後、青ざめた顔の執事が慌てて部屋に飛び込んでくる。
「な、なんでございましょうか!」
「あいつは……ブライユ嬢を見ていないか!?昨日の夜から、一度でもこのホテルに帰ってきたか!?」
俺の剣幕に押され、執事はひどく恐縮したように身を縮め、震える声で首を横に振った。
「み、見ておりません……」
「チッ……!」
舌打ちをして、頭をガシガシと掻き毟った。
迷子になったのか、それとも辺境伯の手の者に何かされたのか。
あいつ、あのジャンク肉を出す酒場に行くとか言っていたな……。
最悪の事態が脳裏をよぎる中、俺は冷や汗を拭いながら執事を鋭く睨みつけた。
「すぐに護衛を手配しろ!」
「は、はいっ!」
転がるように部屋を出ていく執事の背中を見送りながら、俺は手早く外出用の服へと着替えを済ませる。
小娘一人の失踪に、国宝の行方不明。辺境伯の手の内のものか、あるいは全く別の陣営のものか。
「ったく、あのバカ娘……っ、余計な手間を増やしやがって!」
俺は胃の奥がキリキリと痛み出すのを感じながら、足早に部屋を飛び出し、あの酒場へと向かうのだった。
護衛の一人を連れて、俺はあのジャンク肉の酒場へと続く裏通りを足早に歩いていた。
だが、その路地へ足を踏み入れた瞬間、俺は思わず足を止めて呆然と立ち尽くしてしまった。
「なんだ……これは」
路地のあちこちに、凄惨な交戦の跡が残されていたからだ。
鋭く巨大な槍か何かが大量に突き刺さったであろう、抉れた地面。
石造りの道路から分厚い壁に至るまでがボロボロに破壊され、所々に赤い血の跡が点々と飛び散っている。
「くっ……!」
俺は激しい焦燥感に駆られ、奥歯をギリッと噛み締めた。
まさか。そんな事があっていいわけがない!
あいつはこれから、血が飛び散るような残酷な世界を抜けて、世界の広さを自分の目で見て、失われた記憶を探して、自由に旅をする。
……そんな未来が、あの小娘には……、リゼには待っていたはずだった。こんな路地裏で、何者かに理不尽に奪われていい命じゃない。
「…………」
荒ぶりそうになる感情を抑え込むように、俺は一度、深く深呼吸をした。
俺も随分と衰えたものだ。
戦場で無駄な感情を表に出すことは、兵士にとって最悪の選択だというのに。
「……気を引き締めろ」
背後に立つ護衛に低く一言だけ呟き、俺は懐から愛用の単発銃と短機関銃を引き抜いた。
チャキッ、と冷たい金属音を鳴らし、確実に装填が済んでいることを確認する。
俺は、路地に残されたその血の跡を追うように、静かに追跡を開始したのだった。




