第113話 - α ぎこちなさ
一度ハグから解放され、私たちは狭い座席で向かい合うように座り直した。
「フィーネ……さん?」
恐る恐る、どこかぎこちなく尋ねてみると、彼女はまたしても胸が痛むような悲しそうな顔をして、コクリと小さく頷いた。
そんな顔をされると、なんだかこちらが悪いことをしているような気分になってくる。
「あの……その、申し訳ないんですけど。あたし、記憶が……」
なぜか言い訳をするような口調でそう明かすと、魔法使いさんはなおさら悲しそうに目を伏せ、今度は消え入りそうな動作で小さく頷いた。
やっぱり、私のことを昔からよく知っているんだ。
本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになりつつ、私は一番気になっていた質問を投げかけた。
「その……この馬車、どこに向かってるんですか?」
「お家、だよ」
迷いのない、ごく当たり前だというような返答。
お家。
私が育った場所……なのだろうか。だけど、今の私には付き合ってはいられない事情があった。
「お家……?その、あたしが急にいなくなると、心配する人がいるかもしれなくて」
脳裏に、ホテルでコーヒーを飲みながら私の帰りを待っているであろう、あのおじさんの呆れ果てた顔が浮かんできた。
あのおじさんのことだ。無断でいなくなったら、絶対に「余計な手間を増やしやがって」と盛大な溜め息をつくはずだ。
――その瞬間だった。
ヒュッ、と馬車の中の空気が一瞬で凍りつき、局所的な冷気が吹き荒れた。
「くっ……!?」
思わず身構える暇すら与えられなかった。
魔法使いさんは私の手をキュッと握ると、そのまま強引に引っ張り、あっという間に自分のお膝の上へと私を再び乗せてしまったのだ。
「リゼ、大丈夫。あなたは、もう、安全、だから……」
静かだけど、絶対に拒絶を許さない強い想いが含まれた声。
彼女は片方の腕で私の身体をすっぽりと抱きかかえながら、もう片方の手でよしよしと慣れた手つきで私の頭を優しく撫でてくる。
片手で抱いて、片手で撫でる。
無駄のない、手慣れた器用な手つき。
あ……。
その抱かれ心地。その、お膝の上の収まりの良さ。そして頭を撫でてくる絶妙な力加減。
記憶は何も思い出せないはずなのに、身体の全細胞が、昔からずっとこうされていたと心地よく覚えていた。
この人は、嘘をついていない。
本当に私のお姉さんで、昔からこうやって私を抱きしめてくれていたんだ。
吹き荒れていた冷気がスーッと収まっていく中で、私はフィーネさんの腕の中で完全に脱力し、この確信に満ちた温もりに身を委ねるのだった。
その心地よい感覚は、空腹を忘れるのに十分なものだった。
けれど、私の腹の虫はそれで納得してくれなかったらしい。
きゅるるるぅ……。
静かな馬車の中に、なんとも情けない音が響き渡った。
「……その、フィーネさん。実はお腹が減って……」
私が恥ずかしさで少し顔を赤くしながらこぼすと、彼女は寂しそうに、しかし小さくクスリと微笑んだ。
そして、馬車のどこに置いてあったのか、座席の横から小さな革のカバンを引き寄せると、中から丁寧に紙で包まれたサンドイッチを取り出した。
「はい、あーん、して」
「えっ?」
魔法使いさんは私を片腕でしっかりと抱きかかえたまま、もう片方の手で器用にサンドイッチをつまみ、私の口元へと運んでくる。
なんか、手慣れすぎてる気がする……。
いくら姉妹とはいえ、いい歳をしてお膝の上でご飯を食べさせてもらうなんて。もしかして私、思ったより幼いのかな?
普通なら恥ずかしくて「自分で食べるよ」と抵抗するところだけれど。
「あむっ……」
不思議なことに、私の口は無意識のうちにパクリとそれをくわえ込んでいた。
もぐもぐと咀嚼すると、素朴だけれど温かいパンと具材の味が口いっぱいに広がる。
「美味しい?」
「……うん」
私が素直に頷くと、花がほころぶような、この世のすべてを満たしたような嬉しい笑顔を浮かべて、私の口元についたパン屑を指先で優しく拭き取ってくれた。
あまりにも自然で、息をするのと同じくらい当たり前のようなやり取り。
ただ膝の上で抱かれて、ご飯を食べさせてもらっているだけなのに。
この空間はたまらなく温かくて、私は心底落ち着いた気持ちで、小鳥のように次のひと口を待っていたのだった。
魔法使いさんが食べさせてくれたサンドイッチを、最後の一口までしっかりと飲み込む。
空っぽだった胃袋が温かい食べ物で満たされて、私はホッと息をついた。
「フィーネさん、ごちそうさま」
私が素直にお礼を口にすると、彼女は嬉しそうにしていた表情を少しだけ曇らせ、やっぱりどこか悲しそうに目を伏せた。
「……お粗末さま」
どこか寂しげなその呟きに、私は胸の奥がチクリと痛むのを感じた。
「どうか、したんですか?」
私が首をかしげて尋ねると、魔法使いさんは私を抱きしめている腕の力を少しだけ緩め、言いにくそうに視線を彷徨わせた。
「その……呼び方と、敬語が、ね?」
「え?」
「……お姉ちゃんって、呼んで、くれないかな?」
暗い路地裏で容赦なく氷の槍をぶっ放し、分厚い城壁を魔法で粉砕した恐ろしい魔女だとは到底思えない。
彼女はまるで親に甘える小さな子どものように、もじもじと頬を染めながら、切実にお願いしてきた。
お、お姉ちゃん……。
頭の中でその言葉を反芻してみる。
私の身体の全細胞は、この人の温もりを完全に受け入れていて、膝の上でご飯を食べさせてもらうことすら自然だと感じている。
けれど、いざ声に出そうとすると、記憶がないという事実が分厚い壁となって立ち塞がり、どうしても口元が強張ってしまうのだ。
「お姉……、さん」
頑張ってそう呼んでみようとしたけれど、どうしても最後にさんがついてしまった。
この無意識の敬語の壁は、今の私にはどうやっても越えることができなかったのだ。




