第112話 - α 目覚めと温もり
うっすらと目を開けると、視界に飛び込んできたのは見覚えのない木目の天井だった。
ガタゴトと、一定の周期で全身を揺らす微かな振動と車輪の音。
どうやら私は、走っている馬車の中に乗せられているらしい。
反射的に身構え、警戒しながら周りを見渡す。
……車内に乗せられているのは、私だけのようだ。
……私、なんで馬車に?
まだ少し重たい頭を振りながら、必死に記憶を掘り起こす。
そうだ。あの絶品ジャンク肉を食べに行こうとして路地裏を歩いていたら、突然ボロボロの外套を着た謎の魔法使いに襲撃されて。
死に物狂いで戦って、皇剣で相手の氷の盾と外套を切り裂いて――。
そこまで思い出して、私はふと首をかしげた。
あれ?私、なんで倒れたんだっけ……?
最後の記憶にあるのは、外套の向こうから現れた、白い髪と青い目をした美しい少女の顔だ。
あの顔を見た瞬間に猛烈な頭痛と耳鳴りに襲われて、そのまま意識を手放してしまったんだった。
……そう思い返していると、ふと、お尻の下に妙な感触があることに気づいた。
馬車の座面にしては、なんだいやに柔らかくて、心地よい温もりがある。
妙な感覚だ。
けれど、なぜだか身体の奥底が『大丈夫』と安心しきってしまうような、不思議と落ち着く座り心地。
ん……?
違和感を覚えて、私はそろりと後ろを振り返った。
「え……」
そこにいたのは――私を殺す勢いで襲撃してきた、あの魔法使いだった。
彼女は馬車の座席に深々と腰掛け、私をしっかりと自分の膝の上に乗せたまま、すやすやと気持ちよさそうに呑気に寝息を立てていたのだった。
「え?……えっ?」
私は思わず二度見……いや、三度見してしまった。
路地裏で顔を合わせた時、この人は私を本気で殺そうとしていたはずだ。
あの肌を刺すような極寒の殺意は、絶対に気のせいなんかじゃなかった。
それなのに、なんで今は私を膝に乗せて、こんな呑気に寝息を立てているの?
「……とりあえず、離れよう」
私はそっと立ち上がろうと、腰を浮かせかけた。
しかし。
「――んっ」
ぐいっ、と私の腰に巻き付いていた腕に強い力がこもり、再び元の位置――つまり彼女の太ももの上へと強引に引き戻されてしまった。
寝ているはずなのに、私が離れようとする気配を察知した途端、絶対に逃がさないとばかりに強く抱きしめてくるのだ。
……どういう状況?
私は身動きが取れないまま、間近にある彼女の美しい寝顔を見つめた。
白い髪に、長いまつ毛。
先ほどは敵意のままに振り下ろしてしまったけれど、こうして穏やかに眠る顔を見ていると、なぜか胸の奥がキュッと締め付けられるような、懐かしい感覚が波のように押し寄せてくる。
この人、私と知り合いなのかな?
疑問が次々と頭の中に湧いてきて、私は一度冷静になって状況を整理することにした。
まずは自分の装備の確認だ。
私は腕の中でおとなしくしながら、腰回りを確かめる。
おじさんから受け取ったあの皇剣は失われていた。
けれど、もう一振りの盟剣と数本の短剣は、奪われることもなくそのまま腰に提げられている。
……武装解除すらしないで、私を膝に乗せて抱きついて寝てる?
どう考えてもおかしい。なんで?
頭の中に無数の疑問符が浮かび上がる。
もし私を捕虜や人質として連行するつもりなら、真っ先に武器を奪うはずだ。
こんな風に刃物を持たせたままの相手を抱きしめて無防備に寝るなんて、あり得ない行動すぎる。
……つまり。
理由は全く分からないけれど、この魔法使いさんに私への敵意が、もう一切ないことだけは、どうやら間違いないらしい。
そう結論づけると、なんだか一人で一生懸命に警戒している自分が急に馬鹿らしくなってきてしまった。
馬車の揺れと、背中から伝わってくる不思議なほど心地よい体温。
それが私の警戒心を、まるで春の陽射しのように優しく溶かしていく。
「……まぁ、いっか」
私は小さく息を吐くと、それ以上の思考を放棄してそっと目を閉じた。
そして、コトン、と。
この訳の分からない、けれどひどく温かくて呑気な魔法使いさんの胸元に、もう一度自分の背中と体重を預けたのだった。
目を瞑ってしばらく馬車に揺られていたけれど、さすがに私は、背中の魔法使いさんのように呑気に眠りへと落ちることはできなかった。
元はと言えば、あの絶品のジャンク肉を食べに行く途中だったのだ。
ここが安全だとわかってから、お腹の虫が限界を訴えていて、とてもじゃないが寝てなどいられない。
「……お腹へったなぁ」
私がぽつりと呟いた、その時だった。
「……んんっ」
背後から衣擦れの音がして、魔法使いさんが目を覚ます気配がした。
そして。
「――リゼ」
震えるような声で一言、私の名前が呼ばれた。
次の瞬間、魔法使いさんは私の身体を膝の上から下ろし、座席で向かい合うような体勢にさせたかと思うと――。
「ぎゅえっ!?」
思い切り、私の身体を真正面から抱きしめてきた。
息が詰まるほど……いや、本当に肋骨が軋むくらい苦しい、全力のハグだ。
けれど、不思議なことに嫌な感じは全くしない。
その力強い抱擁の中に閉じ込められていると、心の底から『安心』という感情がとめどなく湧き上がってくるのがわかった。
「あの、えっと……。その、どちら様?」
私が苦しいままにそう尋ねると。
魔法使いさんの肩がピクリと跳ね、私を抱きしめていた力がスッと抜けた。
至近距離で顔を見合わせると、彼女は世界の終わりを告げられたかのように、露骨にがっかりとした……ひどく傷ついたような表情を浮かべていた。
「……覚えて、ないのね」
悲しそうに目を伏せた彼女は、少しだけ沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。
「私は、フィーネ。……あなたの、姉よ」
「あね?お姉さん……ってこと?」
私が目をパチクリとさせていると、フィーネと名乗った彼女は、今度は壊れ物を扱うかのように……まるで、この世で一番大切な宝物を抱くように、もう一度優しく私を抱きしめた。
「そう。私のかわいい妹……やっと、やっと見つけたわ」
耳元で囁かれるその声は、どこまでも甘く、そして深い愛情に満ちていた。
さっきまで容赦なく氷の槍を降らせてきた極寒の殺意は嘘のように消え去り、今の彼女からは、私を絶対に守り抜こうとする温かい熱だけが伝わってくる。
私の記憶にはないはずのお姉さん。
だけど、この優しくて温かい腕の中にいると、私はどうしてか、それを疑う気にはなれなかったのだった。




