第110話 - α 襲撃
ふんふんと鼻歌交じりに、私はアッシュクロフトの薄暗い路地裏を歩いていた。
夜風を避けるために深くフードを被って裏通りを歩く私は、さしずめ訳ありの『お尋ね者』といったところだろうか。
そんな他愛のない妄想をしながら、あの絶品ジャンク肉の味に思いを馳せていると――。
不意に、目の前の暗がりからボロボロの外套を羽織った人影が、私に向けて猛然と突っ込んできた。
――っ!?
背筋を凍らせるような、強烈な嫌な予感。
私は思考を挟むより先に、本能に従って思い切り後方へと跳躍した。
「――消えろ!」
暗い路地に響き渡る、憎悪に満ちた叫び声。
それと同時に、直前まで私が立っていた場所の地面が爆発したかのようにひび割れ、無数の……いや、巨大で鋭い氷の槍が三本、空を穿つように突き刺さって生成された。
「っな!?」
私は思わず声を引きつらせ、着地と同時にさらに数歩バックステップを踏んで距離を取る。
もし反応がコンマ一秒でも遅れていたら、私はあの氷の槍に串刺しにされていただろう。
魔法!?なんでこんな街中に、こんな魔法使いが!?
おじさんが持っていた本で読んだことがある、敵国、聖国の人間は魔法に長けていて、その強さは火薬を使った武器に匹敵するか、使い手によってはそれ以上の威力を誇るという。
どうなってるの!?
頭の中に疑問が渦巻くが、それ以上に私の本能が、目の前の相手への最大級の警鐘を鳴らしていた。
見据えた先に立つ、ボロボロの外套を纏った人物。
その全身から放たれている、肌がヒリヒリと焼けるような強烈な『殺意』は、いままで対峙してきた相手とは次元が違う、尋常ではないものだった。
私は腰に提げた『皇剣プロウド』の柄に手をかけ、いつでも即座に抜刀できるように重心を落とした。
だが、息をつく暇すら相手は与えてくれない。
「――潰れろ!」
ボロボロの外套の人物が叫んだ途端、私の前後左右、四方の空間に分厚い氷の壁が瞬時に生成されていた。
ギギギッ、と耳障りな冷気を放ちながら、四枚の壁が私を圧殺しようと一斉に迫り迫ってくる。
――っ、嫌な予感しかしない!
迷っている暇などない。これに挟まれれば、文字通りミンチにされてしまう。
私は思考を極限まで加速させ、迫りくる背後の氷の壁へと鋭く振り返った。
――四季刀流・春の型。『薄氷!』
「せあっ!」
静寂から放たれる最速の横一文字居合。
私は鞘から皇剣を抜き放ち、その神速の一閃で、立ちはだかる分厚い氷の壁を横一文字に両断した。
凄まじい音と共に氷の壁に亀裂が走り、ガラガラと崩れ落ちる。
私はその僅かな隙間へと身体を滑り込ませ、四方からの圧殺を間一髪で抜け出すと、そのまま振り返ることなく、暗い路地裏の奥へと真っ先に逃走を図ったのだった。
――まずい、まずいまずい!
私は暗い裏路地を全力で駆け抜けながら、心の中で悲鳴を上げていた。
建物の陰から陰へと必死に逃げているはずなのに、背後から迫り来る冷酷な追跡の気配が全く途切れない。
それどころか、時折私の退路を先回りして塞ぐように、前方の地面や壁からも鋭い氷の槍が突き出してくる始末だ。
絶対に逃げ切れない……!
冷や汗が背中を伝う。
あの苛烈な内戦が終わって以来、これほどまでに濃厚な死の匂いを感じるピンチは久しぶりだった。
相手は私の動きを完全に読み切り、地形すらも氷の魔法で支配しようとしている。
このまま背中を向けて無策で走り続ければ、ホテルに辿り着く前に確実に串刺しにされてやられてしまう。
「……っ!」
――やるしかない……!
私はキュッと唇を引き結び、腹を決めた。
逃走の足を止め、入り組んだ路地の深く暗い影へと素早く身を隠す。
浅くなりかけた呼吸を無理やり整え、気配を限界まで断つ。
私は腰の『皇剣プロウド』の柄を固く握り直し、暗闇の中で息を殺しながら、追撃者がこの路地に足を踏み入れるその瞬間を静かに待ち構えた。
暗い路地の影に完全に溶け込み、私は息を殺す。
足音すらない冷たい気配が、ジリジリと私に近づいてくる。
――今だっ!
ボロボロの外套を纏った人影が、私の潜む影の目の前を通り過ぎようとしたその瞬間。
私は暗がりから弾かれたように飛び出し、不意打ちを仕掛けた。
「はぁっ!」
鞘から皇剣を奔らせ、渾身の力を込めて相手の胴を薙ぎ払うように斬りかかる。
しかし。
確かな手応えとともに火花が散ったのは、肉や骨ではなく、極寒の氷だった。
相手が振り返るよりも早く、私と外套の人物との間に、幾重にも重なる分厚い氷の盾が突如として展開されていた。
渾身の奇襲は、その絶対的な防御の前に無情にも弾き返された。
くうっ……!魔法使いだっていうのに、反応速度も防御の硬さも次元が違いすぎる!
手が痺れるほどの硬さ。ただの氷じゃない。
私は弾かれた反動を殺しながら、瞬時に次の行動を計算した。
このまま盾ごと砕く勢いで怒涛の如く攻め立てるか。
それとも、一度距離を取って睨み合い、体勢を立て直すか。
ほんの一瞬、私の脳裏に生じた逡巡。
――その僅かな思考の迷いこそが致命的だった。
「――死ね」
氷の盾の向こう側から、一切の感情を排したような冷酷な呟きが耳に届く。
ゾクリと全身の産毛が逆立った次の瞬間。
私の頭上の空間から、私の身体を真っ二つに貫くように、巨大で鋭い一本の氷の槍が容赦なく降ってきたのだった。
……ダメだ!
頭上から容赦なく降ってくる巨大な氷の槍。
これをただ防ぐだけでは意味がない。
槍を凌いでいも、そのほんの僅かな隙に、あの魔法使いは確実に次撃を放ち、私を後ろから刺し貫く。
相手の思考を上回らなければ死ぬ。
ピンチを、チャンスに……!
「はぁぁぁっ!!」
私は逃げるのをやめ、真っ直ぐに踏み込んだ。
降ってくる氷の槍に向かって、下から斜め上へと皇剣を猛然と斬り上げる。
ガキンッ!という甲高い音とともに、分厚い氷の槍が真っ二つに切り裂かれて宙を舞う。
だが、本命はここから。
私は切り裂いた勢いのまま、空中で身体を回して。
――先ほどのような威嚇や牽制ではない、純粋に『斬ること』のみに全神経を集中させた一撃を、眼前の氷の盾ごと相手へと振り下ろした。
――四季刀流・奥義。
終の型『除夜・除日』
剣閃が暗い路地裏で閃光のように奔る。
先ほどまで私の渾身の一撃を容易く弾き返した幾重にも重なる氷の盾が、まるで薄いガラスのように粉々に砕け散った。
私の刃はそのまま真っ直ぐに盾の向こう側へと届き、相手の纏っていたボロボロの外套を斜めに深く斬り裂いた。
浅いか……。
バサリと、重たい布切れが地面に滑り落ちる。
そして、暗闇の中にその人物の顔が露わになった。
「えっ……」
その顔を見た瞬間。
私の脳天を、巨大なハンマーで殴りつけられたような強烈な頭痛が襲った。
「が、ぁっ……!?」
視界がぐにゃりと歪み、耳の奥でノイズのような耳鳴りがガンガンと響き始める。
指先から急速に力が抜け、手放してしまった皇剣がカランと虚しい音を立てて石畳に転がった。
立っていることすらできず、意識が深い泥の中に引きずり込まれるように薄れていく。
それでも、薄れゆく視界の端に焼き付いたその姿だけは、なぜか鮮明に脳裏にこびりついて離れなかった。
白い髪に、透き通るような青い目。
硝煙と泥にまみれたこの街には絶対に存在しないはずの――あまりにも美しく、そしてどこか見覚えのある、聖女のような少女の姿が。




