第108話 - α お嬢様?の夜
苦しいコルセットに耐えながら、私は大きなテーブルの最奥にある椅子に、ただボケーッと座って待っていた。
「無言で座っているだけ」というのは確かに頭を使わなくていいけれど、時間が経つにつれてただただ退屈になってくる。
「……おかしいな」
ふと、窓際で腕を組んでいたおじさんが低く呟き、テーブルの上のベルをチリンと鳴らした。
直ちに扉が開き、パリッとした制服の執事さんが恭しく入室してくる。
「辺境伯には、俺たちが来ていること……伝わっていると思うか?」
おじさんの問いかけに、執事さんはひどく恐縮したように身を縮めた。
「……恐れながら。皇帝陛下の代理として来ている方を、辺境伯が把握していないというのは、まずあり得ないかと存じます」
執事さんはそう答えながら、上座で無言のまま鎮座している私のほうをチラチラと伺い見た。
完璧なドレスアップとメイクのせいか、その視線には明らかな畏怖が混じっている。
「また、ブライユ公爵家のお嬢様が来ていることは、間違いなく辺境伯の耳には入っているはずでございます」
「……もういい。コーヒー淹れてこい」
「かしこまりました」
おじさんが短く命じて執事さんを足早に下がらせると、広いリビングには再び重苦しい沈黙が落ちた。
「はぁーっ……」
おじさんは向かいのソファにどっと深く座り込むと、眉間を揉みほぐしながら、疲労困憊といった様子の盛大なため息をついたのだった。
「……もう着替えてきていいぞ」
深い溜め息のあと、おじさんはそう呟いてテーブルのベルをチリンと鳴らした。
その小さな金属音は、私にとってコルセットからの解放を告げる、天国からの鐘の音に等しかった。
「失礼いたします、お嬢様」
すぐさま扉が開いてメイドさんたちがやってくると、私はあれよあれよという間に寝室へと連行され、息を止めて重厚なドレスとコルセットを脱がされた。
ぷはぁっ、と深呼吸をして新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込む。
「お着替えはこちらでよろしいでしょうか?」
メイドさんが用意してくれていたのは、朝に着たようなフリルのついた高級な部屋着だった。
けれど、私は首を横に振って、自分の荷物の中から一着の服を取り出した。
「ううん、こっちにする」
私が選んだのは、おじさんが買ってくれた、動きやすさ重視の普段着だ。
見知らぬ高級ホテルの部屋着よりも、何度か洗って少し生地が柔らかくなったこのラフな服の方が、今の私にはずっと落ち着く。
手早く着替えを済ませ、すっかりいつもの村娘?の姿に戻った私は、足取りも軽くリビングへと戻った。
「おじさーん、着替えたよー」
声をかけてソファの方を見ると、そこには目を疑う光景が広がっていた。
「…………」
なんと、おじさんもさっきまでのパリッとした格好から一転、いつものだらしな……いや、普通の旅の服にすっかり着替えてしまっていたのだ。
「えっ、おじさん、こんな大事な時にそんな服でいいの?」
思わず目を丸くして尋ねると、おじさんは私の姿を上から下までジロリと見て、鼻で笑った。
「……お前もな」
「うっ」
確かに、公爵令嬢の威厳なんて欠片もないただの平民の格好だけれど。
私が言葉に詰まっていると、おじさんはソファの背もたれに深く体重を預け、長い足をドンと前のテーブルに投げ出した。
「辺境伯がこちらを蔑ろにするからな。こっちも、くつろがせてもらうさ」
おじさんはそう言って、部屋の隅でコーヒーを淹れている執事さんを意味ありげにチラリと見やった。
その言葉とあからさまな態度に、執事さんの背中がビクッと大きく跳ねる。
どうやらおじさんは、このホテルの人間に対して、あえて『お前たちがその気なら、中央の使者も礼儀なんか払ってやらないぞ』という強烈なメッセージを送っているらしい。
「なるほどね!」
難しい政治の駆け引きはよく分からないけれど、息苦しいドレスを着なくて済むなら大歓迎だ。
私はニコニコと笑いながら、おじさんの向かいのソファにドサリと遠慮なく腰を下ろしたのだった。
「ところで、執事さんいるのにこんな普通に話していいの?」
私が小声で尋ねると、おじさんは鼻を鳴らした。
「公爵の娘に楯突くバカはいないだろう。……なあ?」
おじさんがソファから鋭い視線を向けると、部屋の隅で控えていた執事さんはビクッと肩を震わせ、ひどく恐縮したように深く頭を下げた。
「お、恐れ入ります……!お嬢様のお飲み物も、すぐにお持ちいたします……っ!」
執事さんは冷や汗を拭いながらそう言い残し、逃げるように足早に部屋から下がっていった。
パタン、と扉が閉まり、広いリビングに少しの沈黙が落ちる。
私はソファから立ち上がると、自分の荷物から使い慣れた外套を引っ張り出し、バサリと羽織った。
「ねえおじさん、私、出かけてきていいかな?」
「……どこへ行く気だ」
「あのジャンクなお肉の味が忘れられなくて。もう一度、昨日の酒場で食べたかったから」
私の食欲全開の理由を聞いて、おじさんは呆れたように深くため息をついた。
「……好きにしろ。俺はここでのんびりしているさ」
そう言いながら、おじさんは傍らに立てかけてあった一振りの剣――見事な装飾が施された国宝級の代物である『皇剣プロウド』を、無造作に私の方へと放り投げてきた。
「おっと」
私は空中でそれを受け取りながら、国宝をまるでその辺の木の枝か何かのように投げるおじさんに思わず苦笑を漏らす。
「それじゃ、いってきます!」
二振りの剣をしっかりとベルトに提げると――扉ではなく、大きく開け放たれた窓枠にヒョイと足をかけ、そのままホテルの窓から硝煙の舞う街へと勢いよく飛び出したのだった。




