第107話 - α お嬢様の昼
お腹も心もいっぱいに満たされた優雅な朝食を終え、私は広いリビングへと戻ってきた。
「お腹いっぱい食べたよ、おじさん」
私が声をかけると、窓際のソファに座り、コーヒーを片手に何かの手紙を読んでいたおじさんが「……そうか」と短く一言だけ呟いた。
「何読んでるの?」
私がそばに寄って首を傾げると、おじさんは手元の紙束から視線を上げずに答えた。
「御者から送られてきた、この街の勢力図だ」
「御者さん、なにやってるの?」
ホテルに着いてから姿を見ていないあの無口な御者さんの顔を思い浮かべて尋ねると、おじさんは少しだけ間を置いてから、ふぅと息を吐いた。
「……簡単に言うと、俺たちが皇帝の代理でここにいることを喧伝しながら、この街の実情を探ったり、こうやってパワーバランスを探ったりする情報収集だ」
おじさんはそう言って、ヒラヒラと手元の手紙を揺らしてみせた。
「書いてあることによると、ウォルター辺境伯という人物がこの地を治めているようだ。ザロウ公爵の指示で、火薬や重火器を量産していたらしい」
「へんきょうはく……」
「実利を取る性格らしいから、懐柔は簡単そうだな、皇帝の代理がここにいるなんて聞いたら、すぐにでも飛んでくるだろう」
淡々と今後の見通しを語るおじさんの言葉に、私は目を瞬かせた。
喧伝、勢力図、懐柔……。難しい言葉がいっぱいで、正直なんだかよく分からなかった。
頭を悩ませても仕方がないので、私は一番肝心なことだけを聞くことにした。
「……それで、私は何をしてればいいの?」
私の問いに、おじさんは手紙からようやく視線を外し、私を真っ直ぐに見据えて言った。
「お前は上座……一番奥の席に座って、無言でいてくれればいい」
そう言われた私は、「無言で座っているだけなら簡単かも」と少しホッとして、腰に提げた盟剣アリィスの柄にそっと手を添えた。
窓から差し込む朝の陽光に、美しい剣の意匠をかざしてキラキラと反射させていると、ふいに、おじさんが無情な言葉を投げかけてきた。
「……一息ついたなら、ドレスに着替えてこい。こういう交渉事は、見た目が大事だからな」
「えっ……また、あのきつい服着るの?」
私はギョッとして、思い切り抗議の目を向けた。
せっかくメイドさんたちに、ゆったりとした室内着に着替えさせてもらったばかりなのに!
あのコルセットでギュウギュウに締め付けられるドレスは、息をするのも苦しくて本当に大変なのだ。
しかし、私の必死の抵抗の眼差しも虚しく。
おじさんは一切の容赦なく、チリン、とテーブルの上の呼び鈴を鳴らした。
「失礼いたします、お嬢様。さあ、こちらへ」
すぐさま音もなく扉が開き、ニコニコと完璧な笑顔を浮かべたメイドさんたちが再び入室してくる。
「あっ、ちょ、待っ――」
私のささやかな抵抗は一瞬で打ち砕かれ、あっという間に三人がかりで寝室へと連行されていくのだった。
「ぐえっ……!」
寝室に連行されるなり、私の口からカエルのような潰れた声が漏れた。
「お嬢様、もう少しだけ締めますからね。息をふぅーっと吐いてくださいませ」
「ま、待って、これ以上は肋骨が、折れ……っ」
「はい、完璧ですわ!」
私の悲鳴を華麗にスルーして、メイドさんたちは容赦なくコルセットの紐を引き絞った。
息をするのも一苦労なほどお腹周りを固定された上に、次々と重厚な布地が被せられていく。
今回用意されていたのは、深海のように濃い紺碧のドレスだった。
朝のふんわりとした室内着とは対極にある、何枚にも重なった重厚なシルク。
胸元や裾には銀糸で複雑な紋様が刺繍されており、一目見ただけでとんでもない価値があると分かる、威圧感すら覚える代物だ。
「次はメイクでございますね。……本日は重要なご面会と伺っておりますので、少しだけ『強め』に仕上げさせていただきますわ」
ドレッサーの前に座らされた私は、もはやまな板の上の鯉だった。
三人のメイドさんたちが、魔法のような手つきで私の顔に触れていく。
肌は透き通るような白さに整えられ、目元には切れ長で凛とした印象を与えるラインが引かれる。
最後に、ふっくらとした唇に深みのある紅が引かれると、鏡の中の景色がガラリと変わった。
「……これ、本当に私?」
思わず呟いてしまった。
鏡の中に座っているのは、木剣を振るって泥だらけになっていた私でも、大鎌を振り回して暴れていた私でもない。
冷たくて、高貴で、他者を寄せ付けないような絶対的なオーラを纏った少女。
どこからどう見ても、帝都の奥深くで権力を握る冷徹な公爵令嬢そのものだった。
「威厳と気品が満ち溢れておりますわ、お嬢様」
うっとりと両手を合わせるメイドさんたち。
見た目は完璧だけれど、中身は息をするのも苦しくて「早く脱ぎたい」としか考えていないただの村娘だ。
……でも、これなら確かに『無言で座っているだけ』で、十分すぎるくらいハッタリが効きそう。
私は鏡の中の自分を見つめ返し、この後に控えているウォルター辺境伯との面会に向けて、静かに覚悟――というか、息を止める準備を決めるのだった。




