第104話 - β 朝
「んーー……」
二度寝の魔力に抗うように小さく唸る愛おしいリゼを、ベッドの隣で幸せな気持ちで眺めていると、彼女はふと目を擦りながら口を開いた。
「ねえお姉ちゃん。今日は、お出かけしたいな」
「えっ」
途端に、私の口から間抜けな声が漏れてしまった。
大好きな妹の『お出かけしたい』という、ごく当たり前で、なんてことのない小さな願い。
もちろんすぐにでも叶えてあげたい。
……けれど。
リゼが一歩家の外に出れば、魔法が使えない彼女に対する周囲の冷たい視線や、心無い嘲笑のひそひそ話が否応なく突き刺さってくる。
私にすら聞こえてくるそんな残酷な声を、大切なリゼには絶対に聞かせたくなかった。
「お、お出かけ?ええっと……お買い物なら、お姉ちゃんはお店の人に家へ来てもらうほうがいいと思うなぁ」
私は焦りを隠すように、少し早口で誤魔化しの言葉を並べた。
「ほら、聖室に住んでる人っていうのは、自分から外に出向くんじゃなくて、お店の人に商品を持ってきてもらうものなのよ?」
苦しい言い訳だとは自分でも分かっていた。
するとリゼは、私の言葉の裏にある不自然さ――
あるいは、私が何を恐れて外に出したがらないのかに気づいたのか、少しだけ寂しそうに目を伏せた。
「……そっか」
小さく一言だけ呟いて。
すぐにまた、私を安心させるような、ひだまりみたいに優しい笑顔を向けてくれた。
「今日はお姉ちゃんと一緒にいるよ」
そう言ってぎゅっと私に抱きついてくれるリゼ。
その温もりに触れながら、私は彼女を外の世界から守れた安堵と、自由にお出かけすらさせてあげられない自分の不甲斐なさで、胸が締め付けられる思いだった。
結局、私たちはそのままベッドから這い出ると、私はリゼの手を引いて、彼女を部屋の隅にある大きなアンティーク調のドレッサーの前へと座らせた。
「ふふっ。お出かけできない代わりに、今日はお姉ちゃんがリゼを世界で一番可愛くしてあげるね!」
私はドレッサーの引き出しから色とりどりのリボンや化粧道具を取り出し、ワクワクとした気持ちでリゼの髪に触れた。
外に出られないなら、せめて家の中で、とびきり可愛いお洋服を着せて、可愛く着飾ってあげれば……リゼの気分転換にもなるなぁって思って。
けれど。鏡の中に映るリゼの顔は、私が手を加えるたびに、晴れるどころか曇っていく一方だった。
柔らかい髪を梳かし、ピンク色のかわいいリボンを結び、少しだけ頬に紅を差して、とびきりフリルがついたドレスを着せて。
完璧にドレスアップしたリゼを、私は全身鏡の前に立たせた。
「みて、リゼ。リゼはこんなに可愛いのよ。物語の王女様よりも、ずっとずっと可愛らしいわ!」
私はリゼの後ろから彼女の肩を抱きしめ、鏡の中の美しい少女に向かって、心からの言葉をかけた。
けれど、リゼは鏡の中の自分を、まるで自分じゃない誰かを見るような、遠い目で見つめていた。
「……ううん。お姉ちゃん。私には、似合わないよ」
小さく呟いたその言葉には、重くて冷たい引力が込められていた。
「そんなことない!リゼは世界一可愛いもの!」
私は反射的に声を荒らげ、彼女をふわりとお姫様抱っこで持ち上げた。
腕の中にすっぽりと収まる、愛おしい重み。
「リゼは、イレイナ家に産まれた聖室の一員……本当のお姫様なんだよ?だから!……だから、大丈夫だから……ね?」
自分でも何を言っているのかわからないまま、私は必死に言い訳を並び立てた。
魔法が使えなくたって、身分は高貴だし、容姿はこんなに愛らしい。だから大丈夫、大丈夫だと。
けれど、その言葉が、どれだけ現実の重力を持たない、空虚なものでしかないか……私自身が一番よく分かっていた。
私は――
――その空虚感に耐えられなくなり、ふっと目を覚ました。
頬に触れる凍てつくような冷たい感覚。視界に広がったのは、どこまでも続く真っ白な雪原だった。
私は風が防げる場所、冷え切った雪の上に力なく転がっていた。
身体を辛うじて包み込んでいるのは、あいつが強引に押し付けてきた一枚の分厚い毛布。
もしこれがなかったら、おそらく私はそのまま雪に埋もれて、静かに凍え死んでいただろうな……と。
自分の命のことなのに、ひどく他人事のようにぼんやりと考える。
「……夢、だったか」
白く濁る息を吐き出し、私は小さく呟いた。
一呼吸置いてから、雪に手をつき、重い身体を引きずるようにしてゆっくりと立ち上がる。
まだ私たちが小さかった頃の、温かくて、けれど残酷な現実を孕んでいた夢。
あの頃のどうしようもない空虚な無力感を思い出し、胸がズキリと痛んだ。
けれど――夢の中で、愛おしいリゼの重みを膝の上に感じたあの記憶。
あの温もりが、今も確かに私の身体の奥底に残っている。
それだけで。
どんなに外が寒くても、どんなに絶望的な状況でも、私はもう一度足を踏み出して、頑張れる気がした。




