第101話 - α 家紋
お腹がいっぱいになるまで鉄鍋のお野菜やお肉、それに唐揚げを堪能した私は、幸せなため息をついてふうっと椅子の背もたれに寄りかかった。
「……そろそろ戻るぞ」
最後のエールを飲み干したおじさんが、ジョッキを置いて立ち上がりながら短く告げた。
「う、うん……」
私は美味しいご飯と、このワイワイとした楽しい空間から離れるのが少し名残惜しくて、もじもじと小さく頷いた。
そんな私の様子を見て、おじさんはやれやれと呆れたように鼻を鳴らす。
「……なんだ。まだ物足りないなら、ホテルに届けさせればいい。どうせあそこの連中は、今頃俺たちの顔色を窺って必死に走り回ってる頃だろうからな」
「えっ!?ホテルに出前できるの!?」
あの超豪華なスイートルームに、このジャンクな唐揚げや鉄鍋が届く光景を想像して、私は再びパァッと顔を輝かせた。
ハインツさんが見たら、また卒倒してしまうかもしれないけど。
すると、一緒にご飯を食べていた巨漢の男の人が、ドンッと自分の胸を力強く叩いて立ち上がった。
「あねさん!ここのお代は俺が払っとくんで、気にせず帰ってくだせぇ!」
「えっ、そんなの悪いよ!」
「もちダイジョブっすよ!あねさんみたいなすげぇ剣士と相席できて、俺たちも最高に楽しかったっすからね!またいつでも顔出してくだせぇ!」
ニカッと豪快に笑う男の人と、その後ろで人の良さそうに手を振る連れの人。
本当にこの街の人たち、荒っぽくて机を投げてくるけど、気前が良くて裏表のないいい人ばかりだ。
「ありがとう!ごちそうさま!」
私は二人に元気よくお礼を言うと、おじさんの大きな背中を追って賑やかな酒場を後にした。
ギィ、と重い扉を開けて外に出ると、アッシュクロフトの街はすでに硝煙の匂いと夕暮れの気配を帯びていて、冷たい風が、美味しいご飯で火照った顔に心地よく吹き抜けていった。
重厚な木の扉がバタンと閉まり、二人の姿が完全に見えなくなった直後。
それまで穏やかな笑みを浮かべていた連れの男
――落ち着いた方の冒険者が、机に突っ伏すようにして深く、ひどく重い息を吐き出した。
「……死ぬかと思った。マジで心臓止まるかと思ったぞ……」
「あん?どうしたんだよ兄弟。あのあねさん、マジで只者じゃねえぞ!あの抜刀術、すげえ腕だったぜ!」
未だに興奮冷めやらぬ様子で残りのエールを煽る巨漢の男に、連れの男は顔を青ざめさせながら声を荒げた。
「馬鹿野郎!お前、あのお嬢様の服のボタンに施されてた紋章を見てなかったのか!?」
「あ?紋章?なんだっけ、お貴族様だとは思ったけどよ」
「『ブライユ公爵家』の家紋だ!」
「ぶっ!?」
巨漢の男が、口に含んだエールを盛大に噴き出した。
「公爵家って……あの!?皇帝陛下の次にスゲー、あのブライユかよ!?」
「そうだ!それだけじゃない……一緒にいた片足が不自由な軍服の旦那。あの覇気と威圧感、俺の勘が正しければ間違いねえ。『リード・ギリアム』将軍だ」
「ギ、ギリアムって……かつて戦争を終わらせたっていう、あの帝国の英雄の……!?」
男の顔から一瞬にして血の気が引き、巨漢の身体がガクガクと震え出した。
「マ、マジかよ!?オ、オレ、そんなヤバい連中に机投げつけて絡んだのか!?やべえ、オレ打ち首か!?明日には首と胴体がサヨナラしてんのか!?」
「……あのふざけた腕前に、公爵家という絶対的な権力だ。もしあのお嬢様がその気なら、お前が鞘を掴んだ瞬間に、お前の首はもう飛んでたさ」
連れの男は疲れたようにジョッキを煽り、呆れと安堵が入り交じった視線を相棒に向けた。
「俺たちは運が本当に良かったんだ。あの二人が、あんなに気さくで度量の広い人たちでな」
「……あねさん、一生ついていくっす……!」
巨漢の男が神に祈るように両手を合わせる横で、連れの男はふと真剣な表情に戻り、二人が消えた扉の方を見つめた。
「……しばらく、ギルドで待機したいな」
「んあ?仕事入れねえのか?」
「ああ。あんな大物が二人揃って、お忍びでこの硝煙の都市にやって来てるんだ。……なにかデカい依頼が来る。そんな気がする」
男の鋭い観察眼と野生の勘に、巨漢の男は震えを収めてニカッと笑った。
「お前がそう思うんなら任せるぜ!俺は頭使う仕事は苦手だからな!」
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すっかり日の落ちたアッシュクロフトの街には、夜の冷たい風と一緒に、微かな硝煙と賑やかな酒場の匂いが混ざって漂っていた。
私はお腹いっぱいになった満足感で、隣を歩くおじさんを見上げてニコッと笑った。
「えへへ……ここの街の人たち、すごくいい人だったね!」
私がそう言うと、おじさんは呆れたように「ふん」と鼻を鳴らした。
「……お前が貴族だとわかっていて、挨拶代わりに机を投げてくるような無法者が果たして『いいやつ』かどうかはわからんがな」
「あはは、確かにそうかも!でも、最後は気前よくおごってくれたし!」
私とおじさんはそんな他愛のない話を交わしながら、薄暗い裏通りを抜け、再び人通りの多い大通りへと戻ってきた。
ガス灯が道を明るく照らし、夜になっても多くの人が行き交う賑やかな通り。
けれど、その道の一角に、ひどく場違いな空気を放つ黒塗りの立派な馬車が停まっていた。
「あれ?」
私が首を傾げたその時。馬車の傍らで、行き交う群衆を必死に掻き分けるようにして走り回っている人影に気づいた。
ハインツさん……ではないけれど、見覚えがある。あの高級ホテルで、おじさんの対応をしていた若い受付の人だ。
彼は血相を変えて通りを右往左往し、私たちの姿を認めた瞬間、弾かれたように駆け寄ってきた。
「お、おおおお待ちしておりましたぁぁッ!ブ、ブライユ様ッ!」
息を切らし、周囲の人目も気にせずほとんど悲鳴のような声で叫ぶ受付の人が私たちを待っていた。
「……話すな」
おじさんは前を見つめたまま、隣の私にしか聞こえないほどの低い小声でポツリと告げた。
ここで私が不用意に口を開いて、ボロを出さないようにということだろう。
私がコクリと小さく頷いて口を結ぶと、おじさんは一転して、通り全体に響き渡るような冷徹で怒りに満ちた声を張り上げた。
「――遅い!うるさい!サッサとホテルへ案内しろッ!」
雷のような将官の怒声。
普通なら恐怖で縮み上がるところだが、受付の青年は即座に処分されることは免れたとでも言いたげに、顔を明るくして安堵の表情を浮かべた。
「は、はいッ!誠に申し訳ございません!ただちに案内いたしますッ!」
青年は弾かれたように深々と頭を下げると、脱兎のごとき手回しで馬車の扉を開け、そのまま御者台へと駆け上がった。
「行くぞ」
おじさんはそう言うと、ゴツゴツとした大きな手で私の手をしっかりと握り、エスコートするように馬車の中へと導いてくれた。
その大きな手の温もりにホッと胸を撫で下ろしながら、私はおじさんの手にひかれて、静かに黒塗りの馬車の中へと乗り込んだ。




