第96話 - β 雪の夜
私は野営の準備を始め、手際よく火を起こして鍋を火にかけるこいつに背を向けた。
そして、冷たい雪の上へと、そのまま無言で寝転がる。
普通の人間ならば、極寒の雪原で直に寝転がることなど自刃に等しい行為だろう。
だが、私にとってこの程度の冷気はなんの苦にもならなかった。
この冷たさが私の罪なのだと思えば、火の暖かさに当たるよりも、荒れた心には心地よかったから。
背中越しに、乾燥した小枝がパチパチと爆ぜる火の音と、こいつが細々と動く衣類の擦れる音が聞こえてくる。
やがて、少しずつ鍋の湯が沸き立つ音と共に、干し肉の塩気と、道中でこいつが摘んでいた野草の青苦い香りが、夜風に乗って私の鼻をくすぐった。
「……料理、出来たぞ」
どれほどの時間が経っただろうか。
背後から、少し気まずそうな、けれど私の冷たい態度を気遣うような、柔らかく抑えた声が落ちてきた。
私は閉じていた目を開き、面倒に思いながらもゆっくりと上体を起こす。
コートに付着した雪を軽く手で払い落とし、揺らめく焚き火の明かりへと歩み寄ると、火に当たっているこいつの対面へと腰を下ろした。
目の前には、いつの間にか湯気を立てる鍋が完成していた。
もっとも、具材と言えば保存食の硬い干し肉と、冬の雪原に自生する簡素な野草を煮込んだだけの、極めて質素な野戦料理みたいだが。
それでも、漂う湯気からはどこか澄んだ匂いがした。
「ほら、熱いうちに食ってくれ」
こいつは少しほっとしたような表情を浮かべ、私の前へと木製のスプーンと深めの皿を差し出す。
そして、手際よく鍋の中身をすくい上げ、具材と熱いスープを私の皿へとたっぷりと注ぎ込んだ。
オレンジ色の火光に照らされたスープの表面で、干し肉から溶け出した脂が小さく光っている。
「……」
私は無言のままその皿を受け取り、スプーンを手に取った。
極寒の静寂と闇に包まれた雪原の中で、二人きりの小さな火を囲む。
さっき冷たい拒絶の言葉をぶつけたはずなのに、目の前にある温かいスープは、不思議と不器用な優しさを伴って私の冷えた手元を温めていた。
向かい合って火に手をかざしていたこいつは、皿を持つ私の冷え切った指先をちらりと見つめたあと、不思議そうに、けれど少し心配そうな声音で聞いてきた。
「……あんた、寒くないのか?」
さっきまで雪の上に直接転がっていたことを言っているのだろう。
スプーンでスープをすくい、ひとくち口へと運びながら、無表情のまま言い放った。
「……そんなわけないだろう」
「なら、どうして火のそばに来なかったんだよ」
至極真っ当な意見だった。
「……ただ、火に当たるのが面倒なだけだ」
温かいスープが喉を通り、冷えた胃の底へと落ちていく。
舌の上に残る塩気と野草の苦味を味わいながら、私は視線を鍋の湯気へと落とし、淡々と付け加えた。
「ただ面倒だから。……理由なんて、それで十分だ」
私のぶっきらぼうな返答に、こいつは呆れたように小さく息を吐いたけれど、そこに嫌悪や冷笑の色はなかった。
むしろ、目の前の私どう扱えばいいのかと頭を掻くような、そんな不器用な気配だ。
「……あんた、よくそんなんで、数年もこの極寒の雪原で生きていられたな」
感心とも呆れともつかないこいつの呟きに、私の手元がほんの僅かに止まる。
どうやって生きてきたのか。
そんなこと、これまで誰に聞かれても答える気すら起こらなかったし、他人に語るような価値のある過去でもない。
けれど――揺らめくオレンジ色の炎に照らされ、温かいスープで少しだけ喉が緩んでいたからだろうか。
私は、自分でも驚くほど柄にもなく、口を開いていた。
「……全てを失って、ただあてもなく雪原を放浪していた。そうしたら……私の前に、打ち捨てられた古い小屋があった」
「小屋……?」
「ああ。誰もいない、忘れ去られた空き家だ。……ただ、それだけだ」
生きようと強い意志を持っていたわけじゃない。
ただ死ぬ理由も見つからず、冷たい雪の中をさまよっていた私の目の前に、偶然雨風を凌げる箱があった。
だからそこで、息を潜めて時間をやり過ごしていただけ。
それは私が魔女になるまでの、あまりにも空白で、孤独な日々の真実だった。
私は、ここでプツリと話を切った。
これ以上過去を、かつて私が聖女だった頃の愚かな記憶を含めて、こいつに語る気など毛頭なかったからだ。
そんな私の強固な拒絶と沈黙の壁を察したのだろう。
こいつは少しだけ寂しそうに視線を揺らしたものの、それ以上深く詮索してくることはなかった。
「……そうか」
ただ短くそう呟いて、自分の皿のスープを黙々とすすり始める。
ただ火の猛る音だけが響く静寂の中、私は手早く温かいスープを胃の底へと流し込んだ。
空になった皿を雪の上に置き、私は小さな声でこぼす。
「……ごちそうさま」
私が今まで一度も口にしなかった、感謝の響きを持つ言葉。
こいつが驚いて顔を上げる前に、私は背を向け、再び冷たい雪の上へと横になろうとした。
――その時だった。
焚き火の方から、何かが私の背中へと投げつけられた。
ばさりと音を立てて覆いかぶさってきたのは、ずしりと重みのある、使い込まれた厚い布だった。
「明日はアッシュクロフトまでの強行軍だ。体調を崩されたら俺が困る。……せめて、そいつにくるまって寝てくれ」
ぶっきらぼうな、けれど明らかに私を気遣うこいつの不器用な声が背中越しに落ちてくる。
自分が寒さをしのぐための荷物から、貴重な防寒具を割いてまで私に投げ渡したのだろう。
突き返すこともできた。私には、こんなものの暖かさなど必要ないのだから。
けれど――私は、なぜかそうしなかった。
私は言葉を返す代わりに、ただ小さく一度だけ頷いた。
そして、まだこいつの体温と焚き火の煙の匂いが微かに残るその厚い毛布にくるまり、静かに目を閉じて横になった。




