第94話 - β 刻まれる時計の針
「……あの子の優しさ」
その言葉に、私は胸の奥をキュッと掴まれたような感覚を覚えた。
脳裏に浮かぶのは、かつて私の隣にいたリゼの姿だ。
いつも素直になれなくて、ツンツンしていて、口を開けば文句ばかり言って呆れていたあの子。
けれど、私が困っている時や傷ついている時は、どんな時だって呆れながらも、絶対に私を助けてくれた。
あの不器用で、誰よりも温かい妹の温度。
思い出すだけで涙がこぼれそうになるのを必死に堪えていると、後ろであいつがふと思い出したように口を開いた。
「……あんたに話したか分からねえけど、もうすぐこの戦争も終わりそうなんだ」
「……なに?」
思いもよらない言葉に、私は視線を彼へと向けた。
「帝都で色々あってな……、詳しいことは俺もよく知らねえが、新しく皇女が即位したらしい。で、その皇女が聖国との和解のために、使者を送ったとかなんとか聞いたな」
「そう、か……」
私は短く呟き、静かに思考を巡らせた。
新皇帝の即位。和解の使者。
……私にできること。そして、私が本当にしたいことは何だろう。
胸の奥で、ドクドクと不快な熱が渦巻く。
私だって、戦争が憎い。
愛する親友のアリアを奪い、最愛の妹であるリゼを惨劇に巻き込んだ帝国が、許せるはずもない。
この目の前にいるお人好しの青年のように、戦争という仕組みが悪い、と割り切れるほど、私の心は清らかでも達観してもいないのだから。
けれど――もし本当に戦争が終わるのだとしたら。
これ以上、無意味な血を流す必要がどこにあるのだろう。
「……紙とペンはあるか?」
「え?ああ、あるけど……どうするんだ?」
「伝書を書く」
私は受け取った紙とペンを走らせた。
一つは、聖国の教皇へ宛てた一筆。
もう一つは――ずっと心配をかけ続けてしまっていた、愛する両親への簡潔な生存報告を書き添えた。
一文字一文字を刻み込むたび、止まっていた私の時計の針が、かすかに、けれど確かな音を立てて動き出していくのを感じていた。
書き終えペンを置き、インクが乾くのを待ってから、私は二通の手紙を小さく折りたたんで封筒へと納めた。
「……行くか」
私は二通の文書をしっかりと手に握りしめ、ベッドに寝かせてあったリゼの剣を腰のベルトに提げると、部屋の扉を開けて埃っぽい木製の階段を静かに降りていった。
私が一階のフロアへと姿を現した途端、宿屋の広いロビーを占拠して休息をとっていた聖国の兵士たちが、一斉にハッと息を呑んで立ち上がった。
「聖女様!お休みのところを……」
先陣を切って駆け寄ってきた隊長らしき兵士の歓喜の声に、私は被せるようにして、絶対零度の冷たく凛とした声を響かせた。
「――命令の更新だ」
「えっ……? 命令の、更新……ですか?」
次のゲリラ作戦の指示だと思ったのか、兵士たちが期待と緊張の面持ちで私を注視する。
私は彼らの熱を帯びた視線を真っ直ぐに受け止めながら、手にした封筒を隊長の胸元へと迷いなく突き出した。
「一度ここを放棄して、全員でこの文書を聖国へと届けろ」
「なっ……!こ、ここを放棄、ですか!?しかし我々は現在、敵陣の背後を脅かす重要なゲリラ作戦の最中で――」
「この任務は、お前たちが考えているゲリラ作戦よりも遥かに重要なものだ」
動揺して反論しかけた隊長の言葉を、私は一切の妥協を許さない強い眼光でねじ伏せた。
「いいか。これは今後の行方を左右する、絶対に失われてはならない機密文書だ。……だからこそ、見つからず、かつ確実に本国へ届けるために、お前たち全員の警護が必要になる」
「全員で……!」
「そうだ。誰一人として欠けることは許されない。帝国の目を避け、北の境界を抜けて、確実に聖国へと戻れ」
私の言葉に、ロビーに深い沈黙が落ちた。
兵士たちは、自分たちに下された任務の重さに身震いしているようだった。
聖女である私が、敵地のど真ん中で直接託した極秘の文書。
それを全員で本国へ持ち帰る――それは彼らにとって、村を襲うゲリラ作戦などとは比べ物にならないほどの名誉で、崇高な使命に映ったのだろう。
これは、私が彼らについた小さな嘘であり、私なりの贖罪だ。
戦争が終わるかもしれないこの期に及んで、これ以上、無関係な帝国の民を殺させたくない。
そして同時に、この狂信的で愚かな私の同胞たちをも、無意味な死を避け生きて故郷へ帰すための道だった。
「……ハッ!この第三小隊、聖女様より賜った至高の任務、必ずや命に代えても完遂してみせます!」
隊長は感激に涙を浮かべんばかりの勢いで直角に敬礼すると、文書を壊れ物のように両手で受け取り、部下たちへと鋭い大声を張り上げた。
「聞いたな!これより我々はゲリラ作戦を中止!全員で北を抜け、本国へと帰還する!一刻の猶予もない、即座に撤収準備にかかれッ!」
「「「オオオォォォッ!!」」」
先ほどまでの血生臭い殺意は消え去り、確かな使命感に燃え上がった兵士たちが、嵐のような手際で宿屋の撤収と出発の準備を始め出す。
私は彼らの熱気あふれる背中を静かに見送りながら、ふぅ、と長く胸のつかえを吐き出した。
これでいい。この村の周囲に、これ以上の無残な血が流れることはもうない。
「……行くぞ」
階段の途中で呆然とこのやり取りを見守っていたお人好しの青年へ、私は顔を向けて淡々と告げた。




