第92話 - α 微かな違和感
支配人のハインツさんに恭しく案内されたのは、ロビーの奥にある、扉のついた小さな小部屋のような場所だった。
私とおじさん、そして御者さんとハインツさんがその中に入った、まさにその途端。
――ガチャン、と。
分厚い扉が閉ざされ、直後、足元の床がガクン!と不自然に揺れた。
「うわっ!?」
部屋全体が真上に引っ張られるような、初めて体験する奇妙な浮遊感と振動。
私は思わず声を上げ、体勢を崩してよろけてしまった。
「おっと……お危ない、お嬢様」
すかさず、斜め後ろに控えていた御者さんが私の腕をしっかりと掴み、体を支えてくれた。
そして、私の安全を確認した次の瞬間。御者さんの鋭い視線が、ハインツさんへと突き刺さった。
「――愚か者ッ!!」
「っ!?」
小部屋の中に、御者さんの雷のような怒声が反響する。
「昇降機を動かす時は、事前に一言声をかけるのが常識だろうが!万が一、お嬢様が転倒されてお怪我でもなさったら、貴様どう責任を取るつもりだッ!ホテルごと灰にするか!?」
「も、申し訳ございませんッ!誠に、誠に申し訳ございません……っ!」
ハインツさんは顔面を蒼白にさせ、狭い昇降機の中で床に額を擦りつけんばかりの勢いで身を沈め、平身低頭に謝り始めた。
御者さん……いくらなんでもちょっとやりすぎじゃ……?
なんだか可哀想になってきた私は、体を支えてくれている御者さんの袖をクイッと引っ張り、再びその耳元へと手招きした。
「……ねえ、そんなに怒らなくても良くない?」
私が小声でそう囁くと、御者さんは眉一つ動かさず、冷徹な声でハインツさんを追い詰めるように告げた。
「……お嬢様は、とても心根がお優しい方だ。今回のみは不問とすると仰っている。だが……次に何か無礼があれば、主人の指示を待たず、この私の判断で貴様の首を飛ばす!」
そんな物騒なこと言ってないって!?
私のささやかで平和的な話は、またしても御者さんの狂気的な超訳によって、戦慄の最後通告へと変換されていた。
恐縮しきって震えるハインツさん。見かねたおじさんが、重々しい溜め息とともに静かに口を開く。
「……落ち着け、ここはお前が騒いでいい場所じゃない」
「――ッ!ハッ……これは大変申し訳ございません、ギリアム卿。つい、お嬢様の身を案ずるあまり……」
おじさんの言葉に、御者さんは主人の言葉でハッと我に返った忠義の騎士、という完璧なお芝居で深く頭を下げた。
この二人、息が合いすぎじゃないだろうか。
そんな寸劇が繰り広げられているうちに、ガタン、と小さな振動とともに床の揺れが収まり、目の前の扉が再び静かに開いた。
そこに広がっていたのは、さっきまでいたロビーとはまったく違う、静かで洗練された長い廊下だった。
なんでお部屋が移動したの!?どういう仕組み!?
めちゃくちゃキョロキョロして辺りを見回したかったけれど、私は必死に我慢した。
ここでお上りさんみたいに驚いたら、さっきまでの御者さんの完璧な威圧が台無しになっちゃう。
私は唇を噛み締め、御者さんにエスコートされるがまま、すんっと無表情に廊下を進んだ。
「――こちらが、当ホテル最高峰のスイートルームになります」
ハインツさんが恭しく両開きの大きな扉を開ける。
その向こうに広がっていた景色を見て、私は今度こそ本当に、思考が完全にショートした。
しゅ、しゅごい……すごい、すごすぎる……っ!
語彙力が完全に消滅するほどの、圧倒的な豪華さだった。
見渡す限りの広大なリビングに、見たこともないような高級な絨毯とアンティークの家具。
大きな窓の向こうにはアッシュクロフトの街並みが一望でき、まるで貴族の宮殿をそのまま閉じ込めたかのような空間だ。
目が飛び出そうなくらい驚いたけれど――私は、我慢だ!
私の顔の筋肉よ、絶対に動かないで! 私は心の中で自分に強い重力をかけ、あくまで「これくらいの部屋、見慣れてますけど?」といった冷めた表情を死に物狂いで維持した。
「ブライユ様、ギリアム卿。お身の回りのお世話をする世話係は、何名ほどお付けいたしましょうか?」
手を揉みながら尋ねるハインツさんに、おじさんは部屋の奥へと歩みを進めながら、冷徹な声を投げた。
「必要ない。俺たちは皇帝陛下の代理として、秘密裏に進めなければならない話もある。……この部屋の者は全て下げておけ。何か用があれば、ベルを鳴らす。それで十分だ」
「か、かしこまりました!では、何かございましたら遠慮なくお申し付けくださいませ!」
ハインツさんは深く深く頭を下げると、逃げるようにして退室し、静かに両開きの扉を閉ざした。
――パタン、と。
扉が完全に閉まり、部屋に私たち三人だけの静寂が訪れる。
……行ったかな。
私はゆっくりと息を吐き出し、外の廊下にハインツさんたちの気配が完全に消えたことを確認した、まさにその瞬間。
「なにここッ!?」
ずっと死に物狂いで抑え込んでいた私の感情が、一気に爆発した。
「いったい何がどうなって、こんなすごいお部屋があるの!?広すぎるし、床はキラキラしてるし、さっきのお部屋は勝手に上に動くし……っ!」
私は我慢していた分を取り戻すように、ふかふかの高級絨毯の上でフワフワした足触りに感動して叫んだ。
そんな私を見て、おじさんは「はぁ……」と本日何度目か分からない重々しいため息をつく。
「……落ち着け小娘、いいか、公爵家という身分なら、これくらいの贅沢は普通なんだぞ」
「ええぇっ!? これが普通なの!?」
貴族のお嬢様って、毎日こんな宮殿みたいな場所で暮らしているの?
私は驚きのあまり、目を丸くして立ち尽くしてしまった。やっぱり私には、貴族の暮らしは、絶対に理解出来ない。
私が一人でカルチャーショックを受けていると、部屋の入り口に控えていた御者さんが、「ふーむ……」と顎に手を当てて、何かを深く思案するような声を漏らした。
「……おい。何か気になることでもあったか?」
その雰囲気の変化に、おじさんは尋ねる。
御者さんは部屋の装飾や窓の外の景色を静かに見回してから、少しだけ眉をひそめて口を開いた。
「いえ……少し、ここのホテルの質が落ちたように思えましてね」
「質だと?」
「ええ。確かに設備や部屋の豪華さは一級品ですが……先ほどの対応です。いかに急な来訪とはいえ、公爵家の紋章と将官の軍服を確認したにもかかわらず、受付の男は私たちを玄関先で足止めしました」
御者さんの声音から、さっきまでの恭しい使用人の演技が消え、冷徹で分析的な響きが混じる。
彼は私の方へと向き直り、真剣な顔で説明を始めた。
「いいですか?リゼさん。この帝国……、いや恐らく世界中どこでも、公爵家という身分は、王族や皇族を除けば最高位、……言ってみれば、準皇族と同じだけの絶対的な権威を持っている家柄なんです」
「じゅ、じゅんこうぞく……」
「ええ。そんな雲の上の存在である公爵家の令嬢を、応接室の柔らかい椅子にも座らせず、玄関先で立たせたまま足止めして待たせる……。
これが貴族社会においてどれほど異常な事態か、分かりますか?」
御者さんは少し言葉を区切り、その事実がどれだけヤバいことなのかを、私にもわかるように教えてくれた。
「普通に考えれば、その場で見せしめに無礼者の首を飛ばされても、後日兵士を送り込まれてホテルごと物理的に潰されても、一切文句が言えないレベルの大罪なんです」
「ええぇぇぇっ!?そ、そんなにヤバいことだったの!?」
私は思わず素の大きな声で叫んでしまった。
首が飛ぶとかホテルが潰れるとか、ヤバさの規模がデカすぎて頭が追いつかない!
「で、でも……、私がブライユ家の関係者とはパット見じゃ有り得ないんじゃ?」
店員さんは、確かにチラチラ見てたけど、身分が明らかになってるわけじゃないんだし。
だけど御者さんは、首を振った。
「それこそありえませんね、貴女が腰に下げてる皇剣と姉妹剣に見える盟剣……、少なくとも、遠目でもこれをみて、立たせて待たせるなんてことはあり得ないんです」
おじさんが腕を組んで低い声で話を繋ぐ。
「つまりだ、そんな貴族社会の絶対的な常識すら守れないほど、あの受付の男は目が曇っていた……あるいは、現場の教育が一からやり直さなきゃいけないレベルで荒れ果てているってことか」
「その通りです、ギリアム卿」
御者さんは深く頷き、窓の外に広がる硝煙の都市へと鋭い視線を向けた。
「前の有力者であったザロウ公爵が失脚したことで、この都市の権力構造そのものが裏でひどく混乱している……。
その影響がこの高級ホテルの規律にまで及んでいる……。人員すら総入れ替えがあったのかもしれない、そう見るべきでしょうね」
ただのご馳走ツアーや観光旅行じゃない。
私たちがここに来た本当の目的は、新皇帝の即位を伝えると同時に、この重要な火薬庫である都市の『本当の現状』を見極めることだ。
お部屋の豪華さに浮かれていた私は、御者さんのその鋭い指摘を聞いて、改めて自分の腰にある二振りの剣――皇剣と盟剣の重みを確かめるようにそっと手を添えた。




