第90話 - α 宿屋?ホテル?
「……それで、無事に街に入れたわけだけど。これからどうするの?」
私が窓の外の景色から視線を戻して尋ねると、おじさんは深く座席に腰を下ろしたまま答えた。
「ひとまず、今日は宿屋に泊まるぞ」
「ええ、それがよろしいかと」
おじさんの言葉に被せるように、小窓の向こうの御者席から御者さんの落ち着いた声が聞こえてきた。
「皇帝陛下の代理とはいえ、我々には先行して動く部隊がおりませんからね。まずは安全な拠点を確保し、そこからこの都市における権力のパワーバランスをしっかりと見極めておきたいところです」
「えっと……よく分からないけど、つまり?」
私が小首を傾げると、おじさんは手元の皇剣を軽く指先で叩きながら、私にもわかるように言い直してくれた。
「要するに、まずはじっくり様子を見るってわけだ。獲物を狩る時は、確実に仕留められる最初の一発で決めるのが定石だろ?」
「あ、なるほどねー」
狩りの例えを出されて、ストンと納得がいった。
むやみに森を歩き回って獲物に警戒されるより、足場を固めてじっと獲物の動向を探る方が、結果的に狩りの成功率は上がる。
「はぁ……。そういう難しい探り合いなら、あたしが出来ることはあんまりなさそうだし、その辺はおじさんたちに任せるよー」
私は両手を軽く上げて、早々に降参のポーズをとった。
私が得意なのことは、体を動かすことぐらいだ。
貴族の権力争いなんて、考えただけで頭が痛くなってしまう。
そんな私を見て、おじさんは「お前はそれでいい」とでも言いたげに短く鼻を鳴らした。
そして、ふと何かを思いついたように、御者席の小窓へと視線を向けた。
「……ところで、御者。お前、さっきから妙に貴族社会での立ち回りがよく分かっているみたいだが。……お前、まさか……いや、なんでもない」
おじさんは鋭い目を向けたものの、すぐに何かを察したように言葉を切り、深い溜め息とともに座席へ背中を預けた。
お姫さまが手配してくれた御者さんだ。ただの運転手ではなく、色々と精通した人間をつけてくれたのかもしれない。
「恐縮です」
小窓の向こうから、御者さんの感情の読めない、けれどどこか恭しい声が返ってくる。
「あははっ、別に恐縮しなくていいのに!」
おじさんと御者さんの間にある、大人特有のピリッとした探り合いの空気を読まずに、私はカラッと笑い飛ばした。
誰が手配したどんな人であれ、今こうして私たちを安全に運んでくれている味方であることには変わりないのだから。
そうして私たちは、頼りになる御者さんの案内で、ひとまずの拠点となるアッシュクロフトの宿屋へと向かうのだった。
「……それで、どこか宿屋の目星はついているのか?」
おじさんが座席に深く座り直しながら、御者さんに向けて問いかけた。
どうやら、現地での具体的な滞在プランは、この有能な御者さんに一任しているらしい。
「ええ。宿屋というよりは……ふーむ、見ればわかりますよ」
小窓の向こうから、御者さんの少し意味ありげな声が返ってきた。
「んん?宿屋じゃないの?」
私が不思議に思って聞き返すと、御者さんは淡々と答える。
「宿屋は宿屋ですが……おや、見えてきましたね」
言われて、私は窓から人目を気にしつつ、ちらっと外の景色を覗き込んだ。
そこにあったのは、私の知っている『宿屋』の概念を根底から覆すような建物だった。
高い石造りの壁に囲まれ、見上げるほど立派な門構え。
建物の装飾も洗練されていて、まるで小さなお城のような巨大で荘厳な施設だ。
「……宿屋?」
私が目を丸くして固まっていると、御者さんがサラリと種明かしをしてくれた。
「ええ、宿屋ですよ。……貴族用の、ね」
「なるほどね……」
これが、貴族パワー……、権威を、圧巻される建物を作ってみせてるのかな。
おじさんは窓の外の立派な建物を一瞥すると、腕を組んで深く頷いた。
「俺たちは今、『公爵家のブライユ嬢』と『帝国軍のトップ』を名乗っている、……というか半分本当のことだが。あの皇女はお前の身元引受人のようなものだしな……。
ともかく、下手に安い宿に泊まって身分を疑われないためには、こういう無駄にいい所に泊まらないといけないんだ」
そして、おじさんは私に向き直り、真剣な顔で念を押した。
「いいか、小娘。外に出たら、お前はとりあえず黙って俺についてこい。何か用があれば、直接声に出さず、御者に耳打ちすればいい」
「えっ、喋っちゃだめなの?」
「ああ。貴族の奴らは、格下の人間とは直接話すらしないとか、そういう見栄張りがよくあることらしいからな。余計な口を開いてボロを出すより、その方が『それっぽい』だろ」
「へえー……。貴族様も、色々と気を遣って苦労するんだねー」
私が心底不思議そうに素直な感想をこぼすと、小窓の向こうから御者さんの苦笑いが漏れてきた。
「……本物の貴族は、それを苦労とは欠片も思っていないでしょうね」
そんなやり取りをしているうちに、馬車は滑るようにお城のような宿屋の正面玄関へと到着し、ピタリと停車した。
「では、行きましょうか」
御者さんが素早く外に降り立ち、うやうやしい動作で馬車の扉をスマートに開けてくれる。
「どうせ宿泊料金は皇室持ちだ。せいぜい、皇女の金で贅沢させてもらおうか」
おじさんはニヤリと悪党のような笑みを浮かべ、コツリと杖をついて立ち上がった。
……、ごめん、今回は大鎌の出番はないかも、さすがにこれは貴族とは縁遠そうだし……。
私は、留守番になる大鎌を撫でた後、お姫様から貰った可愛い衣装の腰に国宝である皇剣と、私の相棒である盟剣の二振りをしっかりと下げて、おじさんの後に続いて豪華な貴族の宿屋へと足を踏み出したのだった。




