第89話 - α 硝煙の都市
「止まれ!入市検査である。全員馬車から降り……」
外から響く、鎧を擦れ合わせる音と、衛兵の威圧的な声。
ついに私たちの馬車の番が回ってきたみたいだ。
「おいおい、そう急かすな。中には高貴なお方が乗っておられる。長旅でお疲れなのだ、大声を出すな」
おじさんは心底うんざりしたような声を出しながら、馬車の扉を重々しく開けた。
そのまま外の衛兵に向けて、懐から取り出した何かの書類――おそらく、事前に用意していた通行証か何かをパサリと手渡す。
扉が開いたことで、外の冷たい空気と、都市の喧騒がドッと車内に流れ込んできた。
私はといえば、慣れない貴族の服を着ていることもあって、ここで何か喋ったら一瞬でボロが出てしまうんじゃないかと気が気ではなかった。
……よし、こういう時は寝たふりに限る!
座席に深く身体を預け、すっと目を瞑った。
ソフィの用意してくれた上質な服が、私の動きに合わせてカサリと上品な音を立てる。
呼吸を意識して一定に保ち、完全に意識を失っているお嬢様のフリを決め込むことにした。
外では、おじさんが渡した書類を確認している衛兵の、紙をめくる音が聞こえる。
やがて、書類に目を通し終えたらしい衛兵が、少しだけ声音を和らげた。
「……書類は確認いたしました。……帝国軍の、かなり高位の将官殿とお見受けいたします」
衛兵の声は、おじさんの纏う威厳ある軍服と、彼が帯びているただならぬ剣の存在に気づき、明らかに恐縮していた。
だが、その視線が馬車の奥――つまり、狸寝入りをしている私の方へと向けられたのが、目を瞑っていても気配でわかった。
「ですが、規則は規則ですので。そちらの奥に居られるお嬢様についても、念のため、お顔を確認させて……」
どんなに相手が偉い軍人であろうと、職務を全うしようとする。そんな愚直なまでの生真面目さが、衛兵の震える声からは滲み出ていた。
思わず肩がピクリと跳ねそうになったけれど、私は必死に理性を働かせて寝たふりを突き通した。
心臓がバクバクと嫌な音を立てている。お願いだから、この距離で心音を拾わないでほしい。
私が心の中で必死に祈っていると、おじさんが深く、重々しいため息をついた。
そして、衛兵の言葉を遮るように、冷徹で、絶対の自信を孕んだ声を車内に響かせた。
「彼女はブライユ嬢だ。……何か不服でもあるのか?」
おじさんの一言。
その瞬間、外の空気が目に見えて凍りついたのがわかった。
「ブ、ブライユ……!?こ、これは大変失礼いたしました!」
衛兵の声が、一瞬にして恐怖と驚愕に裏返る。
ガシャガシャと、着込んでいる金属鎧が激しく鳴り響いた。
おそらく、驚きのあまり勢いよく直立不動の姿勢をとって、深く頭を下げたのだろう。
ジャケットのボタンに刻まれた公爵家の家紋が、どれほどの権威を持っているのか、その反応だけで十分に伝わってきた。
沈黙する衛兵に、おじさんは呆れ半分に、だが凄みのある声で話を繋ぐ。
「……ついでに警告しておいてやる、検問で偉い奴の不興を買いたくないならもう少し気を配れ。俺の身なりにこの剣……、俺たちが何者か、少し想像してから口に出すんだな。下手したら首が飛ぶぞ」
それは警告というよりも、おじさんなりの不器用な助言に聞こえた。
「つ、通過を許可します!開門――っ!」
衛兵の張り裂けんばかりの大声が響き、バタン、と馬車の扉が静かに閉められた。
直後、ガタゴトと車体が小さく揺れて、馬車が再び前進を始める。
……通れた。
私はゆっくりと目を開け、はぁぁ……と胸に溜まっていた息を限界まで吐き出した。
「……緊張したぁ。おじさん、ナイスタイミング」
「言っただろう、貴族という肩書きには弱いと、……あの衛兵は素人だったな。一応助言はしてやったが、あいつは長く持たないぞ。俺の格好にこの剣を見て、それでも『念の為』などとぬかしていたからな」
おじさんは鼻で笑いながら、手元の皇剣をひどく雑に扱っている。
「なんていうか、仕事に忠実な兵士さんなんだろうね。いいことだと思うけど……」
「だが、機転が利かず貴族の不興を買えば、簡単に首が飛ぶ。……貴族社会ってのは、そういう理不尽なもんだ」
皇剣を弄り倒した挙句、最後にはポイッと私に向かって投げ渡し、面倒そうに座席に背中を預けるおじさん。
「嫌なもんだ」と呟くその横顔は、ひどくくたびれて見えた。
「……おじさん、この剣投げるのハマっちゃった?」
ちょっとズレたことを聞いてるなって、口に出してから気付いた。
案の定、おじさんは短く鼻を鳴らした。
「……国宝を投げるなんて機会、そうそうないからな。そんなことより、外を見てみろ。そろそろ門をくぐり抜けるぞ」
地響きのように遠くから絶え間なく聞こえてくる重い金属の打撃音。
見渡す限りの無骨な石造りの建物からは、空を覆い隠すほどの無数の煙突が突き出し、灰色の煙を吐き出し続けている。
窓から入り込む風は、いつか嗅いだ潮の匂いとは全く違う。
鼻の奥をツンと突くような、鉄と火薬の焦げた匂いがした。
窓の外を見ると、馬車は厳重な城門をくぐり抜け、ついに目的地へと足を踏み入れていた。




