EX II - 7 親友
「……ありがと、お姉ちゃん」
この秘密の言葉は、遠ざかる波の音と馬車の揺れる音に紛れて、夜の闇の中へと静かに溶けていった。
――はずだったのだけれど。
「ヒューヒュー!尊い場面だなぁ。これがロマンス小説だったら、間違いなくここが最終回だぞ」
馬車の壁を突き抜けて、外の御者席からカイナのニヤニヤとした声が響いてきた。
「……っ」
聞こえていたらしい。
一瞬で顔がカッと熱くなるのを感じ、はぁ、と今日何度目になるかわからない盛大なため息をついた。
お姉ちゃんを起こさないように、細心の注意を払いながら、自分の肩に預けられていた彼女の体をゆっくりとふかふかの座席へと横たわらせた。
そっと羽織りものをかけ直して。
お姉ちゃんは心地よさそうに小さな寝息を立てたままだ。
それから、音を立てずに馬車の扉を開ける。
「……ふッ!」
手すりに手をかけ、一気に跳躍した。
この馬車は貴族用の上等な作りで、客席の扉から前方の御者席までは結構な距離が離れている。
それでも、滑らかな動きで風を斬り、吸い込まれるようにしてカイナの隣の御者席へと着地してみせた。
「おっとお!?さすがの体術だな、ここ、結構離れてるのに平気な顔で飛び移るもんなぁ」
手綱を握るカイナが、目を丸くしながらも感心したように口笛を鳴らす。
「カイナの声が大きくて、お姉ちゃんが起きそうだったからね」
私はスカートのフリルを気にして少し座り直してから、夜風に髪をなびかせ、隣に座る親友の横顔を見つめた。
夜の荒野を静かに進む馬車。月明かりに照らされたカイナの顔は、いつものように屈託のない笑みを浮かべている。
胸の中にずっと引っかかっていた質問を、今度は親友に向けて投げかけてみることにした。
「ねえ、カイナ。……今日は何の日か、わかる?」
「ん?今日?」
カイナは手綱を握ったまま、うーんと天井の星空を仰ぐようにして「ふーむ……」としばらく真剣に考え込んでいた。
お姉ちゃんが仕事をサボってまで企画した、特別な海への旅。
お母様が用意してくれた特製のドレスのようなパジャマ。
絶対に、ただの思いつきなんかじゃないはずだ。
お姉ちゃんの友達であるカイナなら、何か知っているかもしれない。
期待を込めて親友の言葉を待っていると、カイナは考えるのを放棄したように、いつもの快活な笑顔で歯を見せて笑った。
「あははー、……さっぱりだな!」
「……カイナも知らないの?」
「そうなんだよなーこれが!フィーネさんから『リゼを海に連れていきたいから馬車を出してくれ』って頼まれただけだから!何か特別な記念日なのか?逆に私が聞きたいくらいだぜ!」
豪快に笑い飛ばす親友を見て、肩の力を抜き小さく苦笑した。
お姉ちゃんだけでなく、カイナまでもが本当にただ「私を楽しませるため」に、理由も知らずに付き合ってくれていたのだ。
「ううん、なんでもない。……ただ、本当に楽しかったなって思っただけ」
その言葉を最後に、しばらくの間、言葉のない時間が流れた。
けれど、それは決して気まずいものではなくて、どこまでも心地よくて温かい沈黙だった。
ガタゴトと響く車輪の音と、規則正しい馬の足音。
夜風が私たちの間を通り抜けて、かすかに波の残響を運んでくる。
そんな静寂の中、手綱を握るカイナがふと、何かに気づいたように小さく笑った。
「しかし、すごいフリルだな!風に乗ってひらひらして、本当に……お姫さまみたいだ」
月明かりに照らされた私のパジャマを見て、カイナがしみじみと言う。
普段なら、恥ずかしさのあまり「からかわないでよ!」とすぐに皮肉を返していただろう。
けれど、今夜はなぜか、その言葉を素直に受け取ることができた。
潮風に吹かれて冷えた身体に、お母様が用意してくれたこの衣装に宿る、確かな温もりが心地よかったからかもしれない。
「……一応、私もイレイナ家の娘だからね。他の国で例えたら、お姫さまといえばお姫さまになるのかなあ?」
半分冗談のつもりで、逆に問いかけてみる。
するとカイナは、手綱を持ったまま「ふーむ……」と首を傾げて真剣に考え込み、それからあっけらかんと言い放った。
「わからん!」
「やっぱり」
「歴史とか他の国のことはよく知らないしな!けど……」
カイナはそこで一度言葉を区切ると、まっすぐ前を向いたまま、事もなげに、けれどひどく確かな声で続けた。
「私の最高の親友は、あとにも先にもリゼだけさ!」
「……っ」
不意打ちだった。
そんな照れくさいセリフを、どうしてこの親友はこんなにも簡単に、惜しげもなく言えてしまうのだろう。
「……羨ましいな」
自然と声が漏れていた。
「ん? なにがだ?」
一度漏れたら、流れ出すように、言葉が溢れてくる。
「カイナは、そういう照れるようなこと、簡単に言えるから。私は……そういうの、結構言葉にできないからさ」
私の本当の本音。
昔から感情を表現するのが苦手で、いつもツッコミや皮肉で誤魔化してしまう自分に対する失望。
すると、カイナはいつもより少しだけ声を落として、静かに囁いた。
「生きてるうちに、本音で話すってのは大事なことなんだぜ?」
「……急にどうしたの?」
いつになく真面目な親友の雰囲気に、少しだけ戸惑って彼女の横顔を見つめた。カイナは前を見つめたまま、声のトーンをもう一つ落とした。
夜の荒野の暗闇に、その声が深く染み込んでいく。
「……そろそろ、帝国との前線がまずいらしいんだ」
「前線が?」
「ああ。救援や救助までなら、今までも私たちの騎士団が出てたけど、でも……そろそろ本格的に、戦争への参加要請が来るかもしれないって、団長が言ってたんだ」
戦争。その単語が、楽しかった海辺の思い出を切り裂くように、冷たく御者席に響いた。
「だからさ、私はもっと本音で話そうって決めたんだ。出し惜しみして、伝えられなくなったら嫌だからな!
だからリゼを見てると、ちょっと歯がゆいんだぜ?まあ、そこがリゼの魅力でもあるんだけどな!」
カイナはそう言って、私を安心させるようにいつものニシシとした笑みを見せた。
けれど、私の胸の中には、重く冷たい現実がずっしりと居座っていた。
「戦争か……。人、殺すことになるのかな?」
私が恐る恐る尋ねると、カイナは一瞬だけ瞳を伏せ、それから強く頷いた。
「そうだな。本物の戦場は、殺される前に殺さないといけない。綺麗事じゃ済まない場所だ」
手綱を握るカイナの手が、わずかに強く握り締められる。
「けど――私は、リゼとならなんだってできる気がするから、怖くないさ!私たち二人なら、最強だろ?親友」
カイナはそう言うと、手綱を片手に持ち替え、恥ずかしいことを少しも躊躇わずに、まっすぐ私に向けて左手を上げた。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
これからやってくるかもしれない恐ろしい未来。
けれど、私の隣には、私の力を信じ、私の背中を預かってくれる最高の存在がいる。
私は少しだけ照れながらも、今度は逃げずにまっすぐカイナの瞳を見つめ返し、右手を上げた。
パチン、と夜の空気の中で、私たちの手のひらが重なり合う。
すぐに離れると思っていたその手は、どちらからともなく力を込められ、夜風の中で静かに、強く押し付けられたままになった。
私の右手に伝わってくる、カイナの左手の感触。
それは、同年代の貴族の令嬢たちのような柔らかい手ではなかった。
過酷な訓練を重ね、何度も何度も剣を振り下ろしてきた証である、硬く分厚い剣ダコが無数に刻まれた、ゴツゴツとした戦士の手だった。
……それに比べて、私の手は。
私は、自分の手のひらに意識を集中させた。
カイナと同じように、血の滲むような訓練は毎日続けている。けれど、私の手には剣ダコも、ゴツゴツとした硬さもなかった。
私は訓練の時、いつも必ず頑丈な訓練用の手袋をはめていたから。
「……私の手、全然戦士の手じゃないね。硬くもないし、タコもない」
私が少しだけ自嘲気味に呟くと、カイナも私の手のひらの感触を確かめるように、少しだけ指先を絡ませてきた。
「あっはっは、違いないな!まるで、どこかの本物の……お姫さまみたいな、綺麗な手だな」
月明かりに照らされた私のパジャマの袖から伸びる手。
それは傷一つない、白くて、そして吸い付くように柔らかな、本当にお姫様のような手だった。
この手で、私は棒をり、斬り伏せてきたのだ。
「……皮肉だね。魔法も使えない、可愛げもない私が、手だけは、こんなにお姫様なんて」
昔から感情を表現するのが苦手で、いつもツッコミや皮肉で誤魔化してしまう自分。
手だけが綺麗で、心は武骨なままの自分に対する失望。
すると、カイナは重ねた手のひらに少しだけ体重をかけるようにして、ぽつりとこぼした。
「……本当はさ。本物の戦争になるって聞いた時、手が、震えたんだ」
「え……」
いつも太陽みたいに笑っているカイナの、初めて見せる弱音。
驚いて、親友の顔を見た。
カイナは前を向いたまま、自嘲するように少しだけ目を細めていた。
「人を殺す覚悟も、自分が死ぬ覚悟も、騎士になった時からできてるつもりだった。
……でも、いざ本物の死地が近づいてるって実感したら、どうしようもなく怖くなったんだ。私なんかの魔法で、本当に大切なものを守り切れるのかって」
カイナの手が、私の手の中でわずかに震えているのがわかった。
この震えを隠して、彼女はずっと、私やお姉ちゃんの前で元気に笑ってくれていたのだ。
「でもな、リゼ」
カイナはそこで、パッと顔を上げて私を見た。その瞳には、もう迷いや恐れはなかった。
「背中を預ける相手がお前ならって考えたら、不思議と震えがピタッと止まったんだよ。魔法が使えなくたって、お前は誰よりも強い。
私が前で炎を放つ時、背後から迫る刃は、絶対にその綺麗な手が、容赦なく弾き飛ばしてくれる。そう思ったら……戦場に行くことすら、少しも怖くなくなった」
カイナの真っ直ぐな言葉が、私の胸の奥の一番柔らかい場所を、ぎゅっと強く締め付けた。
目頭が熱くなる。感情を言葉にするのが苦手な私は、代わりにカイナのタコだらけの指を、自分の綺麗で柔らかい指で、強く握り返した。
「……私が、守るよ」
声が震えないように、必死に喉の奥に力を込めて、私は誓うように言った。
「カイナに向けて放たれる攻撃は、私が全部斬り捨てる。背後から迫る敵は、私が全部叩き伏せる。この手は、そのためだけにある。だからカイナは、安心して前だけを見て、魔法を撃てばいい」
「……ああ」
「カイナの背中は、絶対に私が守る。何があっても、離れていても、どこにいても、必ず駆けつける、一緒に帰ろう。……だから、震えなくていいよ」
私の不器用な誓いを聞いて、カイナは嬉しそうに、本当に嬉しそうに、月明かりの下で破顔した。
「へへっ、頼もしいな!私の魔法より、よっぽど心が温かくなるぜ。……よし、約束だ!」
カイナは私の手を一度強く握りしめ、それからゆっくりと離した。
離れた手のひらには、お互いの確かな熱が、まだじんわりと残っていた。
「さあ、姫!湯冷めする前に、特急便で屋敷まで送り届けてやるからな!しっかり掴まってろよ!」
カイナは再び両手で手綱を握り直すと、夜空に向かって元気な声を張り上げた。
私は「だから馬車だし、お湯にも入ってないって」といつものように小さくツッコミを入れながら、右手に残る親友の熱を確かめる。
恐ろしい戦争の足音は、すぐそこまで迫っている。
けれど、この暗い夜道を駆け抜ける馬車の中には、私のすべてを懸けて守りたい『光』が、確かに存在していた。
EXエピソード II 海の日・完




